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厭離ィ・ユー、字幕。

標題は、オンリィ・ユーみます。

響きだけ聞くとなんだか熱っぽく秋波ラヴコールを寄せているみたいですけれども、
字面では「厭離」(ケガレたものを厭い離れること)を願うという、乖離。

たいへん好きで、蠱惑的なんだけれども、どこかのめりこみきれない。
そうかといって貫一キックを叩き込んで潔く永訣グッバイを告げられるほど単純でない。

ドイツ心理学者レヴィンLewinが唱えた、「接近ー回避型」の葛藤である。

「接近ー回避型」の葛藤
一つの対象にかなえたい要素と避けたい要素とが併存している状態。

お馴染みの高校倫理教科書『倫理』(数研出版)

わたしは字幕という名の「過激な淑女レディに対し、そういう想いを抱いている。

テレヴィジョンを起動すると——
「アラ。長いことお待ちしておりましたのよ」
いつだって、彼女はそこにいる。誰よりも絢爛に、誰よりも妖艶に。
だから、否応なく目を惹く。ぐい・ぐいと接近してしまう。

彼女の使命は、人間が発した「言葉」を演じる役者に徹することである。
そのはずだった。しかし——文字と発話の蜜月はとても短かい。

人間の声は緊張すれば震えるし、くぐもり、歪みが生じる。
ひと口に震える、といっても、歓喜の震えもあれば悲泣の震えもあろう。
それでも相手に想いを伝えようとして、震えを制動すべく踏ん張る。
それゆえ起きる喜劇もある、悲劇もある。とかく声色は揺れる。
鼓動の尋常ならざる揺れを感じ、今の今まで話していた内容が脳裡を去る。
だから言い淀む。長考やその場しのぎの呻吟が口から漏れる、うう。
それでも相手に想いを伝えようとして——際限なく踏ん張る。
あれやこれや身振り手振りを投下し、表情を変え、全身で言葉を発する。
顔の見えない電話越しの会話なのに、オンライン会議なのに、動く。
人間の発話とは、そういうものである。

字幕は、文字は、どうだろうか。

この文面をご覧いただきたい。
「おはよう」
「おやすみ」
「ありがとう」
「さよなら」

均質フラットである。純粋シンプルである。
人間が話すときに放つ「言葉の汗臭さ」が完全に払拭されている。
震えない、揺れない、淀まない。

「ああ、そうですね」の字面だけでは感情の起伏が読めない。

だからいけない、というのではない。
合わないなりに蜜月を取り結ぼうという努力がそこで励起する。

「あー、そうですねぇ、うん、僕は、こっちの政策が、はい、好みです」
のように、市井の声を逐一文字起こししてニュースが報じたら煩雑である。
そこで報道部は「僕はこっちの政策が好みです」と均して伝える。
そして、わたしたちに伝わる。真っ直ぐ。
だから、わたしたちはテレヴィジョン画面を駆ける文字を信頼し、視線を注ぐ。

ただ本来、文字が書く言葉は人間が話す言葉とは違うものである。
画面上に浮かぶ字幕は、字幕として独歩し、話しはじめる。宿命である。
均質で、個性を持たないがゆえに生まれる「個性」。

そこでいま、「淑女」の字幕が「過激」に暴走している。

「あー、そうですねぇ、うん、僕は、こっちの政策が、はい、好みです」
「僕はこっちの政策が好みです」
「僕はこっち(野党)の(消費税率を引き下げる)政策が好みです」

「あ…ありがとうございます」
「ありがとうございます」
「(小声で)ありがとうございます」

近年は映像編集技術も日進月歩を遂げており、字幕はさらに煌めく。
からい!」と誰かが呻けば、華麗な炎エフェクトが字幕を覆う。
「好きです」と云おうものなら、桃色に照り輝き、ハート印が飛び交う。
「寒い」と歯を鳴らすと、字幕が急速に青ざめ、凍りつく。

人間の科白すべてを字幕はカヴァーし、華やかに高らかに謳いあげる。
辛うじて発話の「内容」は残っているけれど、それはあくまで彼女の歌だ。

この頃はサイドヴォーカルというべきテロップも画面各所に構え、壮観を呈する。
画面の右上には番組のあらすじが短かいセンテンスで魅力たっぷりに記され、
左上には番組ロゴが燦然と輝き、下部中央にはメインの字幕が絶唱する。
場面が驚くべき状況を迎えれば、画面右下に「驚き!」のような檄文が舞う。

スクリーンを観る人間の目は、字幕が独り演出するショーを追っている。
登場する人間たちは、いまや、字幕令嬢たちを舞台へ送り出す作業員である。

究極の地位に辿り着いた彼女は、わたしたちの生活にとり「Only You」だ。
画面を点けたら、いつも通り字幕を指名する。おいで、オイデ。
すぐ現れないようなら、字幕ボタンを押して召喚する。これでよし。

だが、たまに字幕クイーンの手抜かりで、誰も舞台に現れないことがある。
そこではあの作業員に徹していた人間が口を開き、声帯を震わせ、身体を動かす。
ああ…とか、うーん、とか揺れる声色で何かを喋っている。
突如、字幕がサポートも飾り立てもしないナマの発話に接近遭遇するのである。

すると、どうなるか。
平生から「Only You、字幕」と囁いていると、このときなにも聞き取れない。
音量を上げてみるが事態はさほど好転しない、聞き取れない
無論、音は聞こえるが、どうも聴けない。
そして人は、いつも目に依存して発話に耳を傾けていた矛盾を痛感する。
(あるいはチャンネルを替えて、事なきを得る)

ここにきてようやく、字幕厭離の機運が盛り上がる。
会話は耳で聴き、口から発せられるものだという本源を思い出す。

決して、「歌姫」の字幕のカヴァー・ソングがまずいのではない。
「Only You…」と視野狭窄に陥るあまり、オリジナルを忘失することが恐ろしい。

字幕はこれからも唄い続けるだろう。
わたし独りが目を背けたところで消えるようなヤワな彼女ではない。
じつに彼女らしい立ち居振る舞いでわたしの目を惹こうと足掻くはずだ。
そしてその取り組みは見事に成功する。やっぱり彼女を嫌いになれない。
「アラ。お待ちしておりましたのよ」と囁かれれば、ぐっとくる。

しかし、彼女に熱視線を送るべく没我することだけは、堪える。
彼女の素晴らしい歌声の後ろで、誰かの声が掻き消されているかもしれない。
今度こそ、そこに耳を傾ける。もちろん、字幕にも時々目を奪われよう。

だから憎々しげに呟く。

「厭離ィ・ユー、字幕…」

つかずはなれず


○末尾

初めてI.M.O.がY.M.O.に言及する気がします。名曲です。

そして、「おはよう」「おやすみ」「ありがとう」「さよなら」は、
『シン・エヴァンゲリオン劇場版』より借用。
どんな言葉も、発する人間の心情・あり方によって響きや伝わり方が変わります。
不思議。


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