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蒐集家、久遠に出会う 第三章 三、友の隠し事

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 西日によって深い影の出来た久遠研究所の前で、彦根は所長の到着を待った。鍵は閉ざされており、手袋をした手を固く握り合わせて彦根は息をつく。自分がこうして呼び出される謂れはないはずだ。深志も今日が久遠の捜索を打ち切る日だと知っているだろうに、なぜわざわざ対面で話そうとするのか。あの人はどんな連絡や叱責でも、人と会わずに済ませることが好きだと思っていたのだが。
 自分が何かしたか考え、彦根はすぐ首を振る。問題になっている久遠のことなら、全て姫路が悪いのだ。自分はただ、運悪く巻き込まれてしまっただけだ。姫路が和解についても順当に事を進めていれば、あるいはそもそも久遠など作らなければこうはならなかった。
 思えば姫路とは、全く合わない心を持っていた。小料理屋で聞いた伝統工芸を久遠に継がせることなど、いまだに認められない。ああした作業は、やはり人間がやるからこそ価値があるのだ。
 職人の技というものは素晴らしい。幼少期に実家の近くにあった和紙の工房で、彦根はよく手漉きの作業を眺めていた。体験させてもらっても上手くいかず、弟子になりたいと告げたら十年早いと笑って突き放されてしまった。それまでに技を見て覚えろと言われて間近に作業を目で追っているうちに、その美しさが頭から離れなくなった。
 満遍なく繊維を広げ、丁寧に簀桁から剥がす。手を温めるために置かれた湯から立つ白い湯気も印象深い。寒い日の作業は大変だろうに、その苦労を微塵も感じさせない。濡れて皺の入った手のひらさえ、技の賜物だと彦根は思えてならなかった。
 結局弟子となる前に、憧れていた職人は病に倒れて世を去った。もう弟子は取れないと諦めた彼に、せめて自分に出来ることはないか聞いて返った言葉が、今も彦根を支えている。
「あと一人くらいで良いんだ。一人にでも多く、昔から紡がれてきた技の――伝統の営みを知っていてほしいなぁ。きらきらした目でおれたちを見ていた、きみみたいな人が増えたらなぁ」
 踵で地面を抉らんばかりに蹴り、彦根は自分の影に目を落とす。いつの間にか、伝統の世界を脅かしかねないものを知ってしまった。ほんの小さな興味だったものが、恐れへ転じていく。心臓の捻じれるような感覚を覚え、彦根は地面へ吐き捨てた。
「久遠なんぞに、負けてたまるか……!」
 今度は爪先を足元の土へ突き刺す。久遠は人間にとって脅威であるはずだ。だのに小料理屋でその場にはいなかった女は、積極的にあれを受け入れようとしていた。自分と同じ、文化を守ろうとしている人間であることは、その職業から窺える。彼女のような人が久遠を推し進めてしまったら。将来が暗く思えていると、耳に猫の鳴き声が届いた。
 いつの間にか扉近くに、首輪も付けていない猫がうろついている。模様のない真っ黒な毛並みを観察し、より視線を近付けようと彦根は腰を低くする。何か鳴けばそれに返し、顔を洗ったら真似をした。ただ見ているだけでは飽き足らず、彦根は相手を脅かさないよう、少しずつ歩を進める。だがこちらへ近付いていると分かったのか、猫はすかさずどこかへ走り去ってしまった。瞬きも出来ず固まっている間に、待っていた人の声が背に掛けられた。
「待たせてごめんなさい、彦根君。どうしても人のいない場所で話がしたいので、一旦中へ入りましょう」
 この辺りは歩く姿も少ないとはいえ、確かに人前でお叱りを受けるのは御免だ。鍵を開けた所長に続き、彦根は受付の向かいにある奥の一室へ入った。長机の並ぶ部屋の窓際に大きなファンヒーターがあり、深志が操作して暖房を付ける。その近くの机上には、誰が置いていったか分からないスプレー缶が複数あった。
「さて、久遠の今後についてはどうしましょうか? 貴方はまだ、能鉾で久遠がどのように活用されているのか見たことがないのでしたっけ?」
 部屋の扉からも窓からも離れた前列中央の机に片手を置き、深志は確認してくる。久遠の普及を検討する部門を設立する際、彦根はまだ行ったことのない能鉾で実際に久遠の使われ方を視察することになっていた。だが実行しようとした時にこの世界で感染症が流行り、計画が白紙のまま一年が経とうとしている。
「能鉾では恐らく貴方の思う以上に、久遠が当たり前となっています。この世界において課題があるのは承知ですが、既に導入されている場所もあります。それでも貴方は――本当に、久遠の普及へ慎重に、もしくは厳しい制限を掛けることも厭わないと言うのですか?」
 奥歯を強く噛み締め、彦根は異世界出身の女を睨む。彼女は故郷のように、どこへでも久遠を広めたいのか。人間でありながら人間の立場を踏みにじってまで。
「所長がそんなに久遠を活用させたいなら――なんで、わたしが部門を設立するのを許したのですか!? わたしは何の法的整備などもないうちに久遠が多くへ利用されるようになって、悪用でもされないために――」
「部門設立のことなら、私は反対でした。この研究所の理念とは合わないと、当初は考えたので」
 深志は呆気なく、正直な意見を明かす。彦根に懐疑的だった彼女は、次第に久遠の完全なる運用にはどこにおいても課題があることを思い知った。それを彦根と共に解決したかったのだと話す。
「能鉾を中心とした騒ぎは、聞いていますか?」
 不意に所長が、顔を曇らせた。前に林も不安を漏らしていた件のことだと、彦根は気付く。「新世界ワイド」で伝えられる状況は、ひどくなっていくばかりだ。久遠の自由を求める久遠独立運動なるものや、人を平気で殺す久遠の存在など、全くもって想像し難い。深志もこの件を受けて、人間と久遠の関わりは冷静に考えていかなければならないと判断したようだった。
 混乱の首謀者は、久遠を人間より優れた存在と見ているらしい。久遠などなければ、今の能鉾もあの世界も平和でいられただろうに。二条のことについても、久遠というものが複雑な事態を引き起こしているのだ。片方の拳を握り、彦根は湧き上がる人造人間への反発をここで吐き出さんと口を開きかけた。そこに所長が畳み掛ける。
「確かに久遠にまつわる事件は痛ましい。しかし久遠の存在がなければここには生きていない人も、世の中にはいるのです。――彦根君、林君に初めて会ったのはいつだったか、覚えていますか?」
 突然の質問に、彦根は素早く記憶を辿る。大学院へ入った後だから、四年ほど前になるのか。
「その時にはもう、彼の体は久遠となっていました」
 さらりと言われた語に疑いを覚え、次いで彦根は深志へ詰め寄って叫んでいだ。
「そんなの、嘘だ! 久遠は飲食をしないと聞いたけど、あいつとはよく茶も飲むし、食べているところも見ている! 前に紙で手を切ったら痛そうにしていたし、痛覚のない久遠じゃあり得ないだろう!? それに、所長と結婚しているなら――」
 きっと林は、彼女と戸籍を揃えているはずだ。そもそも人間と久遠の結婚が法律で認められたなど、まだ聞いたことがない。疑問が収まらない中、深志がわずかに彦根から目を逸らし、暗い声色で語りを紡いだ。
「……厳密にはあの人、久遠とも言い切れないの。脳だけが人間のまま、それ以外の部分は全て機械で補われている。――そうした特殊な久遠にならなければいけない事情があったのです。まだ久遠研究所の出来ていない、『同志の会』の時代に」
 二条の率いる「同志の会」を訪れた深志は、久遠にまつわる知識も技術も未熟な人々を思って能鉾への「研修旅行」を勧めた。古い工場を借りて一ヵ月間、都合の合った者たちに一から久遠の基礎を学び直させて製造し、時には町に出て久遠が社会に溶け込む様を目の当たりにさせた。順調に終わるかに見えた旅行は、日本へ帰国する三日前の夕方に状況が変わった。
 建物自体が老朽化しており、大した手入れや改修もされなかったのだろう。寝泊まりしていた部屋で漏電が起きて発火し、やがて危険な化学物質らを保管していた倉庫へ燃え広がって爆破した。多くの職員たちは先に避難していたが、一人だけ別の仕事を請け負って逃げ遅れた林は、全身に大やけどを負った状態で見つかった。臓器障害も発覚したが、奇跡的に脳だけは辛うじて機能していた。彼を生かしたいなら、無事である脳を人の形をした「器」に収めるしかない。
「『同志の会』でも、意見が二つに分かれました。林長時の『生きている』部分も殺すか、新たな存在として生かすか。悩んで私は――彼に対して、全ての責任を取ることに決めました」
 林の事情を全員が黙り、漏らした者は無期限退所ということにして、彼の久遠化が決まった。こうして脳だけが生身の存在である久遠として、林長時は生き続けた。その事実は「研修旅行」に行けなかった姫路のような者にも、後から入った彦根らにも伝えられていない。
 ズボンのポケットから出したものを、深志は差し出してくる。手に取るまでもなく、いつも林が身に着けている髪飾りに似ていると彦根は気付いた。ただピン部分の歪みや飾りの変色が、違いを訴え掛ける。
「彼が火事の中でも持っていたものです。あの人、私が買ってやったこれをずっと持っていて――!」
 髪飾りを手の内に隠し、深志は嗚咽の混ざりそうになった声を呑み込む。しばらく彦根へ目を向けず、ややあって彼女は呟いた。
「……本当は今でも、あの形で彼を生かして良かったのか、分からないのです。何の了承もなく勝手に久遠にして、それが許されないようにも思えて――。二条さんも、似たような立場にあるでしょう?」
 彦根は呆然と、所長の話に耳を傾けることしか出来なかった。林のことがあった故に、深志は二条の件についても強く止められなかったのだ。彼女個人の心は、二条を久遠として生かす姫路の側に傾きかけていた。そうでなければ、同じく久遠として生きている林の立場はどうなるのかと懸念して。
「私はやはり、この世界の人間ではありません。どうしても機械といったものに惹かれ、それを利用する人を許してしまう。……私は所長として、中立でなければいけない。だのに姫路君の側に寄りたいと思うなど、悪いことをしてしまいました」
 謝罪を述べ、深志は頭を下げる。所長という立場にある者は、「自分」を出してはいけない。皆をまとめるためには、個人の勝手を出すなどあってはならない。自らを責めるような言い分を止めようとして、彦根は言葉に詰まる。深志が「自分」を殺してくれなかったら、彼女が本来望んでいなかった部門設立は叶わなかった。
「……林は、久遠になってからどのように生きていたんですか」
 低く問うた彦根に、深志は感情を抑えるようにして答える。林は日本でも能鉾でも、戸籍上では以前と変わらず生きていることになっている。そして誰にも久遠だと明かさず、正体がばれることを非常に恐れていた。
「久遠が普及すれば、自分のような存在も認められるか、それとも批判されるかと気にしていました。特に貴方の反応は気になると言っていましたよ。――貴方、久遠が嫌いみたいですから」
 不意に足の力が抜け、彦根は膝から崩れ折れた。先ほどから息が浅く、何か言おうにも言えない。二条のことは、倫理の面から問い詰めようとしていた。しかし既に、倫理的に危うい存在が平気でこの世界にまかり通っていたのだ。それも人間だと信じて疑わなかった、自分の友人が。
 なぜか数年前の記憶が思い出された。出来たばかりの猫カフェを林が教え、ぜひ行くよう勧めてきた。男だからと恥ずかしくて躊躇っていたが、その思いを知った彼は首を振った。
「人生は短いんですから、好きなことをやった方がいいですよ。誰もあなたが猫カフェに来たからって、変に思いはしません」
 そう言っていた彼に死は訪れるのか、彦根は尋ねた。脳はあくまでも生体なので、そこが衰えれば死を迎える。だがそういった点も含めて、普通の人間と違うことを林は今も悩んでいるそうだ。
 ゆっくり立ち上がってから考える時間が欲しいと伝え、深志にはいったん部屋を出てもらうことにした。扉に手を掛けた彼女が、わずかに振り向く。
「二条さんを探す時間を削ってしまったこと、ここでお詫びします」
「……良いんですよ、所長が話したかったんですから」
 そう突っぱねて彦根は背を向け、戸の閉まる音を聞いた。暗くなりゆく空を窓から見つめ、久遠のことで脳内は占領される。自分は、久遠がこの世界に広がることを認めなければならないのだろうか。既に林のことは、知らず知らずのうちに活躍を許していた。それなら二条の件に対しては、どうすべきなのか。
 久遠を受け入れるような発言をしていた人々が浮かぶ。職場の人だけではない、久遠があることさえ知らなかった者も警戒を見せず、むしろ歓迎しているようだった。彼らの意見が、耳にこびり付いて離れない。おもむろに前へ出た足は、やがて部屋の各所へ勝手に向かっていく。そうして動いていても、現実から逃げることは出来ないのに。
 ふらついた手が、机にあったスプレー缶を落とす。床に転がった複数のそれは、ファンヒーターにぶつかって止まった。雑音を気にせず、彦根は入ってきた扉の方を見据える。喉の奥が痛み、目には涙が溢れようとしていた。久遠など知らなければ、こうして苦しむことにはならなかった。誰が心を痛める所以を教えたのか。
 彦根がその名を浮かべた時、背後で耳をつんざかんばかりの爆音が響いた。同時に体が浮き上がり、吹き飛ばされた扉と共に外へ出される。耳鳴りを堪えて振り向くより前に、駆け寄った深志がこちらの腕を掴んだ。
 周囲に迫る熱と煙に気付き、この場が火事になっていると彦根は気付く。火は廊下にも広がり始め、その中を深志が自分を引きずって進んでいく。彦根としては立ち上がる気にもなれなかったが、所長はそんな部下を叱りつけた。
「逃げなさい、私はもう所員を失いたくないのですから!」
 袖で手元を覆う彼女を追い、彦根も気を奮い立たせて外へ出る。炎は階段を伝って上にも上がり、いずれ施設全体を覆い尽くさんとしていた。

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