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連載(65):人類の夜明|人類は何処へ行く「必然性の原理」

この記事は『かとうはかる(著)「人類の夜明」』を連載しています。

必然性の原理

さて人類の歴史はこれまで、偶然に進行してきたのでしょうか?、それとも必然的支えによって運ばれてきたのでしょうか?。


新聞の社会欄を広げると、交通事故や殺人事件の記事や、先生が生徒の暴力行為によって負傷した記事や、自殺者の記事などが載っています。

一面をひっくりかえせば、中東におけるきな臭い記事や、テロによる破壊行為の記事や、経済摩擦による関係大臣の苦悩の記事などが載っています。

その裏をひっくりかえせば、農薬被害や酸性雨被害などの記事が紙面を賑わしています。

どこを見ても、ほほえましい記事など見当たりません。

失意と、落胆と、溜め息ばかりの世の中です。

こんな世の中を政治家は、この繁栄は我が党の政策のお陰であると自慢しているのですから、狂気の沙汰としかいいようがありません。

これが人類が取るべき道だったのでしょうか?。

他に取るべき道はなかったのでしょうか?。

またこんな世の中が、いつまでも続くと思っているのでしょうか?。


誰も思っているわけはないのです。

何かがおかしい?、どこかが狂っている?、と心の底で思っているに違いないのです。


ではどこが狂い?、何がどうおかしく?、一体どうすべきか?、と問われても誰もが首を傾げてしまう。

またどんな世の中を望み?、どんな世界なら納得できるのか?、と問えばなお混乱してしまうのが、一般人の正直な気持ではないでしょうか?。


特に今の若者は、生まれた時すでにテレビがあり、冷蔵庫があり、車があった。冷暖房つきの快適な環境が整い、親は痒いところまで手を差し伸べてくれ、将来の設計もすでに打ち立ててくれている。

若者はただ、親が敷いてくれたレールの上を進むだけです。

しかしそんな環境が整っているにも関わらず、彼らはなぜか落ち着かず、なぜか満足できないでいる。

そして何かがおかしく?、何かが変だ?、そんな疑問がいつも頭の片すみに潜んでいる。

でもその疑問も目の前の華やかさに打ち消され、それ以上深く考えようとしない。


そして、

○ 人種が違うのだから国境があって当然で、その国境を守るためには軍隊は必要不可欠であると思ってしまう。

○ だから侵略には武力をもって対抗するのは当然だ、と疑問もなく思ってしまう。

○ 人それぞれ能力が違うから、地位や身分に差ができるのは当り前と思い、そこから生まれる貧富の差もまた当然と考える。

○ だから物の多寡が人生を決めると思ってしまう。

○ その物の配分には貨幣が必要で、その貨幣を増やすことが人生の最大の目的だと思ってしまう。

○ 人の運命は偶然によって決まるとするから、正しく生きるより自分の都合のよい生き方をした方が得であると思ってしまう。

○ また心は肉体(頭脳)の産物と思うから、心を大切にするより肉体を大切にしたがる。つまり唯物的考えに陥ってしまう。

○ 肉体が全てであるとの考えが、生きている間は、せいぜい楽しく生きたら良い!、という考えに走らせてしまう。

○ 死は避けられない現実と思いつつも、できるだけ死を考えないようにする。だから死後のことなど考えようともしない。

○ したがって、神仏の存在など信じない。


殆どの人が、こんな人生観を持って生きているのではないじゃろうか?。

私はこういう人生観を、真っ向から否定するわけではありません。

それよりも、当然と思っているくらいです。

宇宙心から見ればそれも進化の道すがら、そんな人生観も成長段階には必要だからです。

でもそんな唯物的考えも、人生の荒波にもまれるにしたがい、いかに精神的なものが大切か知るようになるのです。

私はこれを、必然性の原理が働いた結果であると思っています。

これは次のような例え話で分かってもらえるでしょう。

(つづく)

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