連載(13):奉仕経済
1. 奉仕経済
「私がこれから紹介する世界を、『奉仕世界・奉仕社会』と呼ばせてもらうことにします。
奉仕という言葉を使うのは、この社会を動かしているのは、唯一奉仕労働力だからです。
奉仕労働という言葉からも推測されるように、この社会の特徴は、万事が万事人の善意によって切り盛りされている点です。
そこで私は、この社会の経済を奉仕経済と呼ぶことにしました。
この奉仕経済は、次の二つの原理が柱となっております。
① 奉仕献身の原理
② 価値の平等原理(すべての価値を否定する。裏返せば、すべての価値を同等に見る)
ではなぜ、このような原理が採用されたのでしょうか?。
人類の使命は、この地球に理想の世を建設することでした。
そのためには、まず人の心を豊かにしなくてはなりません。
つまり、魂を磨く必要があるのです。
その目的を遂行するためには、すべての人に平等な生活環境が保障(生活保障)されなくてはなりません。
この二つの原理は、それを苦もなく可能にしたのです。
それでは、一つずつ見ていきましょう。
(1)社会を支える奉仕労働力
経済の源をたどっていくと、まず自然の恵みである資源や土地を第一番目に取り上げなくてはなりますまい。
次に、それを製品化する労働力が必要です。
また、その労働力を有効に生かす生産技術も忘れてはなりません。
この生産技術は絶対欠かせない経済分野で、近代産業革命はこの機械技術の発達が推し進めました。
私たちが余暇に親しめるのも、労働時間を短縮させた高度な工業技術のおかげです。
しかしその生産技術を確保するには、現在の経済下では資本は絶対欠かせない要素でしょう。
ここに資本家が登場してくることになります。
そして最後に分配や流通にかかわる商行為者、つまり商人が顔を出すことになります。
この五つの要素が支えあって、現在の経済はなりたっているはずです。
でも1の資源や土地の要素は、明らかに自然界からの贈り物です。
そうすると、あとの2から5までの要素はすべて人間側にあることになります。
とくに4の資本家は、人間がつくりあげた社会権力ですから、排除しようとおもえばいくらでも排除できます。
となると残りの三つは、すべて私たちの労働力ということになります。
以上の理由から、「労働力こそが経済を支える大黒柱である」と断言できるのです。
その意味では、労働力の乏しい国はどんなに資源が豊かでも大国になれないし、怠け者は貧乏から抜け出せないのです。
さて経済を支えている大黒柱は、『労働力』であるという理由を示しました。
ではもし、この労働力をただで手に入れることができたら、すべての物やサービスもただにできるのではないでしょうか?。
経済学はいっています。
『労働力という商品の価値は、労働力の再生産に必要な生活財を生み出す価値に等しいと・・・。
つまり、労働力という価値が生活財の価値を決定し、また生活財の価値が労働力の価値を決定し返す』のだと・・・。
もしそうなら、タダで労働力が手に入ったら、すべての生活材やサービスもタダにできるのではないでしょうか?。」
「でも、どのようにしてタダの労働力を獲得するのですか?。」タダ働きする人などいるだろうか!?。
「まあ、私の話を聞いてください!。
これまで人類が行ってきた労働力の獲得方法は、次のようなものでした。
① 権力や武力によって強引に獲得した・・・奴隷制度・封建制度・社会(共産)主義制度
② 資本(お金)によって買収した・・・資本主義制度
今日のように民主主義の行き届いた社会で①はナンセンスですから、どうしても②の方法に頼らざるを得ません。
すなわち、資本家は労働者から労働力を買うことで、労働者は資本家に労働力を売ることで得てきたわけです。
さてそれでは、労働力を得る方法は①、②、以外ないのでしょうか?。
あります。
それは労働奉仕という方法です。
といっても、これは人の善意を当てにするものですから、全面的に頼るわけにはいきません。
でも世の中にはまれではありますが、奉仕心が旺盛な人もおります。
もしまれな人をまれでなくしたら、この方法は使えるのではないでしょうか?。
そのためには、『奉仕は自らを助ける』という納得できる科学的論拠を示す必要があるでしょう。
それを示しましょう。
今日物価が上がるのは、太陽が東から昇るくらい当然と思われるようになりました。
でも、物価はなぜ上がるのでしょうか?。
先程、『労働力の価値は、労働力の再生産に必要な生活材を生み出す価値に等しい』という経済法則を紹介しましたが、もしそれが確かなら、物価も上げない代わりに、賃金も上げないという経済操作も可能ではないでしょうか?。
勿論この前提には、『単純生産に徹し、人々の生活水準は凍結したまま』という条件はつくでしょうが・・・。
もし物欲に飽きがきて、人口増加も横這いになる時代がくれば、この話はまんざら夢物語でなくなるでしょう。」
「・・・?」
「まだ納得がいかないようですね。
それでは、この話をもう一歩前進させてみることにしましょう。
これまで私たちは、賃金が上がることを当然と思い、下げられることには大きな抵抗感をもっていました。
でも発想を変え、思いきり賃金を下げてみることにしましょう。
100であった労働力の価値(賃金)を、50に、30に・・・このように下げられたなら、物の値段も100から50に、30に、下げられるのではないでしょうか。
物価が下がればまた賃金も下がる。
今の逆循環がはじまるわけですね。
もし、この労働力の価値を0まで持って行ったら、どうなるでしょうか?労働力の価値0という意味は、無報酬で働くということです。」
「タダ働きをするという意味ですか?」
「先程の経済法則によれば、労働力がタダになれば生活材もタダになるのではありませんかな?。
生活材がタダになるなら、タダ働きにはならないでしょう。」
「・・・?。」
「この科学的論拠を示すことによって、奉仕社会ではみなが納得して労働奉仕してくれるようになるのです。
ただし、善意が土台(動機)となっていなくては長続きしないでしょうから、善意を保つ意識改革は必要でしょう。
意識改革とは、唯物思想から唯心思想への改革です。
もしこの改革に成功したら、人類は奉仕労働力という無限の価値を秘めた社会的財産を手にすることができるでしょう。」
「しかし、私的な奉仕労働力をどのようにして社会的財産にするのでしょうか?」
「たしかに、人の心は損得に揺れやすく楽な方へ傾きやすい弱さをもっていますから、奉仕労働力を私物化させない配慮は必要でしょう。」
「私物化させないとは、自分の労働力を自分のものにしてはならないという意味ですか?。」
「そうです。自分好みに使われては、社会の福利に反した使われ方をされてしまうからです。何よりも不合理です。」
「しかし、自分の労働力を自由にできないなんて、まるで奴隷と同じではないでしょうか?。」
「自由にできないとはいっておりません。
職業選択の自由はどんな世界でも保証されるべきですし、労働するしないの意志も尊重されるべきです。
ただ、自分好みに使われては、せっかくの奉仕労働力が無駄になってしまうといっているのです。
大自然をごらんなさい。細菌も虫も動植物も、自ら生きるために働いているように見えて、実際は生態系を安定させる犠牲的働きになっているではありませんか。
人間も自らの労働力を社会的財産として提供すれば、犠牲的働きとして社会に貢献できるのです。
更に奉仕労働力の良い所は、労働の連鎖性を完成させることです。」
「労働の連鎖性を完成させるとは、どういうことでしょうか?。」
「タダで提供した個々人の奉仕労働力は、物となりサービスとなって社会を渡り歩き、最終的に奉仕労働者のところに帰ってくるでしょう。
つまり農業に従事する奉仕労働者は、米や麦や野菜などを作って社会に貢献します。
それを食べて英気を養った他の労働者は、別な働きをして社会に貢献します。
物を作らない学校の先生も、その生活材によって生計をたて、生徒を教育して形こそ違うが社会に貢献します。
教育をうけた生徒も、いずれ奉仕労働者として社会に貢献するでしょう。
このように、連綿とした労働力のつながりを、労働の連鎖性と呼んでいるのです。
ところが今日の社会においては、この連鎖性が貨幣によって分断されているために、社会における労働者の立場も、労働成果も、労働者同士のつながりも、人の目に見えづらいものになっているのです。
もしこれが貨幣でなく生活材によるならば、社会における労働者の立場も、労働成果も、労働者同士のつながりも、人の目にはっきり見えてくるはずなのです。
では、ここまでの考えを整理してみましょう。
① 経済を支えている大黒柱は労働力である。
② その労働力を奉仕労働力という形で社会に組み込むことができたら、その社会は無限の価値を秘めた財産を手に入れたことになる。
③ 更に労働者同士のつながりが、はっきりとした形で見えるようになる。
社会で一番大切なものは労働力であり、その労働力は奉仕労働力という形でいくらでも確保することができ、さらに労働者同士のつながりが身近に感じられるようになる、ということが理解できたと思います。」
「そうなると、生み出された物の配分が問題になってきそうですね?。」
「物の配分が問題になる?」
「どのような世界でも、能力や労働量や職種によって配分量は違ってくるでしょうから、配分問題は当然注目の的になるでしょう。」
「奉仕労働力を使えば、いくらでも物は生産はできるのですよ。
そのいくらでも生産できる物を、どうして労働価値に応じて分けねばならないのでしょうか?。
あなたは、空気を労働価値に応じて分けよとおっしやるのですかな?。
よろしいですか。
人類の争いの種は何だったでしょうか?。
それは、配分争いから起きたのではありませんかな?。
そしてそれは、価値の拘りから生まれたのではありませんかな?」
「しかし!」
「まあまあ、私の話を聞いて下さい。」
(つづく)