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連載(7):真の人間像を解明する

この記事は『かとうはかる(著)「人類の夜明」』を連載しています。

4. 真の人間像を解明する

(1) 死について

「もしあなたが死んだら、あなたはどうなるでしょうか?。」

「・・・?。」

「肉体がなくなった以上、何もかも終わりになるのは当然だ、肉体あればこその自分なのだから・・・、とあなたは答えますかな?。

それでは肉体が全てで、意識は肉体が作り出すとの観点に立って話を進めましょう。

今あなたが存在しているのは、紛れもない事実ですね。

ならば確率論的にいえば、これから後の存在も『無し』にはならないでしょう。

なぜなら、0.000000000000001の偶然とも思える確立で存在しているあなたも、無限時間の宇宙においては偶然でなくなるからです。

分かりやすく、あなたが仮に10兆年分の1の確立で存在(誕生)したとしましょう。

たとえこの分母が、我々の知らない呼び名の数であったとしても、0を並べるわけにはいきません。

なぜなら、今現にあなたが存在している事実があるからです。

ならば10兆年後に、再びあなたは存在することになる。

宇宙は永遠ですから、時間も当然永遠に続くでしょう。

ならば、無限時間×10兆年分の1=無限回数となり、存在する回数は無限数となるでしょう。

勿論、存在しているのは今の肉体のあなたではないが、あなたというあなたではある。

さて唯物論者は、肉体が自我意識を作っていると信じていますから、肉体の死は無意識の始まりとなり、死に至った人はその瞬間から無意識に陥り、次生まで10兆年かかろうとも、無意識においては一瞬と感ずるでしょう。

そうなると死と生はつながり、本人からすれば一瞬たりとも休みなき生の旅路が続くことになる。

もし唯心論者(第三章宇宙と人間を参照)のいうように、死は肉体だけの現象で意識は永遠に存続するとの観点に立てば、死と生の区分けができ、肉体から離脱した人は一時の安らぎが与えられるでしょう。

さて、この確率論で結論づけられるのは、あなたは再び生まれてくるという事実であり、その回数は無限数であるという事実です。

よって唯物論者の生死観は、生の連続となって休みなき肉体の旅が続くことになる。

それではA・B・C・Dのあなたは、まったく関連性のないあなただろうか?。

すなわち、今私と思っている私と、未来で私と思っている私との関連性はどうなるかということです。

これは実に興味深い問題です。

[A]という名のあなたの誕生[A]という名のあなたの死
[B]という名のあなたの誕生[B]という名のあなたの死
[C]という名のあなたの誕生[C]という名のあなたの死
[D]という名のあなたの誕生[D]という名のあなたの死

私がここで言いたいのは、唯物論や唯心論に関わりなく、あなたは再び生まれてくるという事実であり、それはあなたという意識の再生であるという事実です。

ただ唯心論においては、次のような生命の循環が人間を高貴な存在に押し上げているといえるでしょう。

すなわち、

『人間は肉と心をもった二重生命体であり、時がくれば肉体は死んで大地や大気に還元されてしまうが、心、つまり意識は永遠に生き続け、再び別な肉体に宿り人生体験を積んでいくものである。

つまり人間は、輪廻転生(人は生き死にを繰り返している)を繰り返し進化する永遠の生命体である』という人間観です。

これを理解するのは、容易なことではありますまい。

しかし、この理解なしにこれ以上話を進めることができませんので、私の話を聞いている間だけで結構ですから、『人間は輪廻転生を繰り返す生命体である』と思っていただきたい。

いや、何もむり強いしているのではありません。

私の話を聞いている間だけ信じていただければ結構なのです。

後に詳しくこのことに触れ、理解してもらうよう努力はするつもりですが・・・。

マルクスが唱えた史的唯物論は、たしかに物質社会を前提に考えれば説得力のある理論でしょう。

すなわち、すべての社会形態は物質経済の上部構造をなし、人の考えも文化も教育もすべて物質経済に規定されてしまうという論理は、特に今日の物質偏重社会においては万人を納得させる説得力があります。

しかし、人間が肉体で無く、命であるとすれば、この史的唯物論も色あせてしまうのではないでしょうか?。」

「しかし観念的には理解できても、現実にどこまで信じられるでしょうか?。やはり私たちは、目に見え、肌で感じる、肉体しか信じられないのです。」

「ついこの間まで、電波はおろか空気の存在すら認められていませんでした。勿論、地球が動いているなどは狂人のたわごとでした。

ですからガリレオは宗教裁判にかけられ、持説を強引に曲げられてしまったのです。

その当時の人たちは、卓越したガリレオの考えが理解できなかったのです。

しかし理解できなくても、現実に宇宙の動きが人びとの生活に影響を与えていたではありませんか。

同様に、“それは観念論だ!”といったところで、その観念の影響を今私たちはもろに受けているのです。

事実私たちの周りには、いろいろな苦しみや悲しみがあるではありませんか?。

これは、人の心が作った結果ではありませんかな。

すなわち、観念が現実の世界に影を落としている証なのです。

これは現代人が電波の存在を信じているように、地球が動いていることを肌で感じているように、百年後には常識化される事実なのです。

いや百年といわず、数十年もすれば科学的に実証される事実なのです。

そうなれば、もう観念と現実は切り放せなくなるでしょう。

意識とは実に不思議なものです。

すべての存在は、人の意識があればこそ認められるものだからです。

その意味では、死も、生も、私たちの意識の中に存在しているといえるでしょう。

同様に、人の欲望もこの意識を離れては存在しないのです。

(つづく)

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