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自己実現は神道とも手を取り合うか?

こんにちは、まっくすです。

今日、大学のゼミで議論して気になったことを忘れないうちに書き留めたいと思います。もっとも自分のメモ帳に書けばいいんですが。

神道の研究をしている博士後期課程の方に、マズローの自己実現論と神道が食い違いそうなところを指摘いただきました。ただ、互いに相手の分野については詳しくなく、彼女のマズロー理解も僕の発表によるものだと思うので少し心許ないですが。不正確な発言をしてはいなかったかと心配です。また、僕も指摘を受けて、今後神道などの考え方も学んで盛り込んでいこうという次第で、まだ浸透についてはほとんど無学なので、この投稿も神道が不十分であると思われます。

指摘していただいたのは3点あるのですが、それらの紹介と僕の簡単な考察を如何に記そうと思います。


まず一点目に、用語が非常にキリスト教的、西洋的であるという指摘でした。個人や超越などがそうだと言っておられました。

この点は、まさしくその通りであると思います。しかしマズローもこの点は意識しており、むしろキリスト教などの伝統宗教の言葉を使わざるを得ないと言っています。

実際この(組織宗教と霊的生活)の同一視は、英語の中に深く組み込まれているので、伝統的宗教の言葉を使わないで「霊的生活」について語ることは、ほとんど出来ないくらいである。(A.マズロー『創造的人間』p.5)

2000年以上の歴史の中で英語は発展してきたわけですが、その大部分はキリスト教の影響を多分に受けており、超自然的な言葉を使わざるを得ない。自然の範疇でそれらが解明できると主張したのは、マズローが20世紀の半ばにおいて出会った。従って、自然主義的な言葉で至高経験などの現象を説明することはできないのですと言います。


次に、個人が主眼にあるのがそもそも西洋的ではないかということでした。神道、また日本人の伝統的意識としては、個人よりも先に共同体がきます。神道における人生の意味は、「ミコトモチ」という言葉で表されるようです。ミコトモチとしての使命があり、それは自分の力を如何に使って社会をどうするかが重要らしいです。社会と言ってもおそらく村とかのレベルではないかと思われますが。

この指摘ももっともです。西洋的な「個人」の概念が組み込まれているのは間違いないでしょう。ただ、それを自覚してマズローは議論を修正、追加したのではないでしょうか。マズローが晩年に『人間性の最高価値』において自己超越という概念、段階を発表したというのを知っている方もいるかもしれません。マスローはおそらく、自己実現と自己超越は別個のものとしては考えていません。自己超越的な自己実現者と、自己超越的でない自己実現者という言い方をします。共同体感覚の有無とも言えるのかもしれません。自己超越の欲求があるという様に言っていたかは覚えていません。ここで勝手に解釈を付け加えるならば、成長欲求によって自己実現が利他的にもなりシナジーを実現するのだと捉えています。

人生の意味と本能的な欲求、さらに最も高次の欲求が同一視できるのか、これは改めて考えなければいけない問題ですが、同一視できるとすれば、僕の解釈では自己実現論と神道の価値観は異なることになります。最上位の欲求が自己実現であれば、その欲求において他者に仕えたい、貢献したいという動機はあまり含まれていなさそうだからです。しかし自己実現の欲求をどう定義するかによっても変わりそうです。なり得る最高のものになるという意味においては神道と一致しそうです。差異があっても時間や空間による差異として片付けることもできますが、これは今後の課題とします。


最後に、神の概念が違うが、それらを本当に超越して普遍的な言葉で語られるのかということでした。

僕は卒業研究で、マズローの宗教観によるキリスト教の批判をしようと思っています。しかしこのテーマが容易に成り立つのは、マズローの自己実現論がキリスト教的、西洋的な価値観に(少なくとも多少は)基づいているからであり、さらに彼の宗教観は啓示宗教についてしか語らないからです。彼はあまり自然宗教について語りません、むしろ全く語らないと言っても過言ではないかもしれません。そのような宗教観を、神道という自然宗教と比べてみるのは非常に独特な研究になりそうですし、そもそも彼の理論の未熟な部分で必要なものとも思われます。


神道については、一般の日本人レベルの感覚を持ち合わせているだけなので、今後学を深めて、これらの問題を再度考えたいと思います。

以上メモ書き程度のnoteでした。

読んでくださった方ありがとうございました!

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