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『人はなぜ戦争をするのか』フロイト

はじめに:エロスが戦争を止める

女史は、実はフロイトが好きである。フロイトは、現代科学では誤りであるとされる理論を多く提唱した。しかし、フロイトの功績というのは、心理学発展のためのたたき台を創ったことである。学問の発展の火ぶたを切るのに、誤っているか正しいかは、関係ないのである。

女史は、誰も精神分析など相手にしなかった時代に、ひたすら精神病院の患者を観察し続けたフロイトのマインドセットに大いなる敬意を払っている。

さて、本著は、タイトル通り、人間が戦争をする要因を、精神分析学的観点から語ったものである。

結論、人間は本能的に暴力で問題解決をする。戦争は必然である。それを止めるためには、エロス(愛や絆)によって暴力的欲動を抑制する必要があるとフロイトは主張する。

異郷から来た女史が何者か知りたい人はこれを読んでくれ。

そして、女史のnoteをどう読むか、こちらを参考にしてくれ。

戦争の根源:破壊欲動

戦争とは、暴力である。暴力とは、人間の破壊欲動に基づく。

人間には、自己保存欲動(=エロス≒性的欲動)と破壊欲動の2つの欲動が備わっている。このうちの破壊欲動によって、人間は暴力行為を行うのである。

古来より、人間は、利害対立が起きると、決まって暴力でケリをつけてきた。文明の発達により、人は共同体を創り、暴力をよしとしない権力や制度を作った。時間が経つにつれ、それらの共同体の支配層は、被支配層に不利な制度を定め始める。被支配層は、これに対し一致団結して暴力で支配層に抵抗する。支配層もまた、暴力を以てしてこれを制する。内戦である。

内戦もなく、共同体内で一致団結して平和な日々を送っていたとしても、外部の共同体に対して暴力を行使する。戦争である。

人間は、不都合なことがあると、腕力によって物事を解決する。武器が発達した現代では、その武器をいかに巧みに使用し、相手を再起不能にさせるかが解決のカギを握る。

これらの破壊欲動は、人間の根源に備わっている欲動である。つまり、戦争とは、人間のDNAに刻まれた宿命なのである。

善と悪:社会が創る価値観

善と悪とは一体何であろうか。戦争は悪である。しかし、何故、人は悪事を行うことをやめられないのか。

フロイトは、人間の破壊欲動とは人の原始的本性であり、変えることができないとする。そして、その破壊欲動自体には、善も悪もないとする。善悪とは、人間社会がその時々で定めた流動性の高い価値観でしかないのである。しかし、人間の破壊欲動は、人間の社会の中では悪に分類される。故に、人間の本性は悪であり、悪事を働くことは人間の本能なのである。

欲動の改造:人は皆偽善者

とはいえ、社会に生きる人々全員が悪事を働いているわけではない。日々まじめに働く善良な市民だっているではないか。読者はそう思う。

その通りである、とフロイトは言う。なぜなら、我々は、教育によって、破壊欲動を善意に塗り替えるように強制されているからである。教育は、我々が、社会の求める道徳水準に見合った行為をするように強制するのだ。故に、我々は偽善者である、とフロイトは言う。

例えば、我々は、許すことならば目の前にいる会社のうるさい上司を殴り飛ばして、再起不能にしてやりたいと願う。しかし、実際には実行しない。なぜならば、我々は、それは社会の求める道徳基準に反した行為である、と教育されてきたからだ。心の中の破壊欲動を、教育によって押さえつけられ、仕方なく道徳に見合った行動をしているだけなのである。

逆の例で言おう。勤続年数30年の50代の男性は、22歳の新人社員が気に食わない。「俺の時代じゃこんなの許されなかった」と日々感じている。新入社員のふとした行動に、ついに我慢できなくなり、オフィスのど真ん中で新入社員を怒鳴りつけた。怒鳴りつけることは、30年前の日本では、悪事ではなかった。現在では絶対悪のパワハラであり、列記とした脅迫行為である。この上司は、心の中の怒鳴りつけたい気持ち(=破壊欲動)を、社内コンプライアンス規則(教育)によって押さえつけられて、仕方なく我慢していた。それが爆発し、ついに新入社員を怒鳴りつけた。

女史の読者も上記経験があるのではなかろうか。もし上記のように誰かに怒鳴られる経験をしたら、「嗚呼、これがフロイトのいう破壊欲動か。この人は教育で強制された”善”を守り切れない、情けない人だ。」そう思うようにすると心が楽になるかもしれない。

兎にも角にも、これらの道徳基準が、破壊欲動を抑えきれなくなった時、戦争が勃発するのである。

エロス:絆への欲望

ここまで読んできて、フロイトは我々に絶望を与え続けた。戦争は本能、暴力は本能、人は全て偽善者。我々に残された道は破滅なのか。

否、フロイトは、エロスによって破壊欲動を抑制し、戦争を防止することができると主張する。

人間の欲動にはエロスと破壊欲動の2つがあると冒頭で申し上げた。片方の欲望を以てして、もう片方の欲動を制すればよいとフロイトは言うのである。

ここで言うエロスとは、愛する対象との絆である。謂わば人類愛のようなものだ。人と人の間に共通性を作り出し、そこに自己を同一化させることで、エロスを満たすことができる。

愛によってエロスを最大限に発揮すれば、破壊欲動が生まれないというのである。

少々甘ったれた主張に感じるので女史的に推察するが、人類に共通の目標や利益を創りだせば、おのずと互いを仲間とみなすようになり、破壊欲動が芽生えなくなる、という意味だろう。

例えば企業は、同じビジョンの元に人が集まって仲良く活動している。会社が目指すものと、従業員が目指すものが同一であるからだ。これをより大きく人類単位で行えば、戦争は起きない、ということなのである。(そうでないゴミのような企業はたくさんあるが、例えばスタートアップ企業などは良い例であるのでそちらを想像して欲しい。)

おわりに:現代におけるエロス

以上、フロイトの戦争に関する理論を紹介してきた。女史的には、破壊欲動の理論については、日常生活で感じることもあるため、フロイトの理論は全くの誤りではなかったと思う。

また、エロスが戦争防止に繋がるという点も、観点を変えれば誤った理論ではない。フロイトの言うエロスの定義自体は、エーリッヒフロムをはじめとする後続の学者によって書き換えられてしまった。だが、フロイトが本著で主張せんとする本質は、人類間の共通性の創出で有り、これが戦争防止につながることに女史は異論はない。

フロイトの論理など現代では何の役にも立たない。と言う人をよく見かける。女史は異議を申し立てる。

哲学(科学)とは、点ではなく、線である。西洋哲学(科学)は、既存理論の批判を通じて発達してきた。現在我々が正とする科学が、如何なる批判・論証プロセスを追って発展してきたか、知る必要がある。

フロイトは結果的に批判され、反証された。何が誤っていて、それに代わる新理論は何だったなのか。それでは、新理論は本当に正しいのか。

哲学そして科学を学習する際は、理論だけを学んで終わるのではなく、その理論の発展プロセスにも是非着目して欲しい。

科学発展プロセスに関して、女史が尊敬するカール・ポパーの批判的アプローチを解説しているので、こちらの記事を参考にしてくれ。


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