『自由論』ミル
はじめに:個人の自由と社会の制限
ミルは、個人の自由と、社会における自由への制限について本著で記述する。ミルは、個人の自由は、他者の利益を損害しない限り、一切社会によって制限されるべきではないとする。
言論の自由、宗教の自由、職業の自由etc...様々な自由が我々日本人には与えられている。一方、これらの自由の範囲は、明確に定規で線引きされているわけではない。特に、言論の自由は、ヘイトスピーチ等で話題になることも多い。
女史は、今一度、ミルの言う自由の論理に立ち返り、我々は果たして、良い意味で自由を追求するためにはどうすればよいか、考察をする。
以前、エーリッヒ・フロムの『自由からの逃走』の記事を書いたが、こちらも参考にしてもらえると、より自由への理解が深まる。
そして、女史のnoteをどう読むか、こちらを参考にしてくれ。
旧来の社会:国民≠支配者
旧来の社会において、社会を支配する者といえば、一人の個人、部族、身分であった。そのほとんどは世襲制もしくは征服によって支配者としての資格を有し、民衆の意向とは無関係に成り立つ支配体制であった。そして、また、一般市民がこの覇権に挑戦することはなかった。
このような社会において、民衆は支配者に対して権力の制限を求めた。1つは政治的自由や権利だ。2つめは、憲法に基づく監視体制だった。特に後者を実現できている国は19世紀当時は少なく、憲法を制定し、支配者が権力を濫用しないようにすることが、自由を求める人々の目標であった。
現在の社会:国民≒支配者
一方で現代の社会はどうか。少なくとも民主主義の導入された先進国では、旧来の社会とは全く違った支配体制になっている。今や我々国民が選挙を通じて支配者を指名し、解任することができるようになった。国民の利害と意志が、支配者の利害と意志と一体となっている。謂わば、支配者の権力とは、1点集中され、使いやすくなった、国民自身の権力なのである。
支配者と国民の意志が同一であるとする時、支配者である政府の権力に制限を設ける必要があるのか。ミルは、個人に対する、政府権力の制限は必要であるとする。
また、果たして、支配者の意志と全人民の意志は全く同じであるのか。否、そんなことはない。支配者の意志とは、大抵は多数派の意志である。
こうなった場合の危険性として、多数派が、少数派に対して抑圧を始めることが挙げられる。これに対する防御法として、社会は個人を制限する必要がある。
つまり、現代社会においては、個人の自由の制限も必要である、とミルは主張する。
現代における個人の自由の制限:法と世論
現代では、どのように個人の独立と自由を保護し、制限しているか。ミルは、法と世論の2点であるとする。
現代社会では、まずは、法律によって、基本的な制限を設ける。そして、法律でカバーしきれない部分においては、世論=人間の慣習によって、個人に対して制限を行っている。
例をあげるとすれば、殺人は法律によって裁かれるべき罪である。一方で、電車の中で大声で話したり、レジの列に割り込むことなどは、世論によって制限されている。
世論の危険性:多数派重視
ミルは、前章で挙げた2点の制限のうち、世論においては注意をする必要があると述べている。なぜならば、世論とは、大抵、多数派の人間の好き嫌い感情がベースになっているからだ。そしてこれら世論は、道徳や理論とは非常にかけ離れているケースもあると主張する。
例えば、電車の中で泣く赤ちゃんを、日本の多くの人間は忌み嫌う。うるさい、赤ん坊を電車に乗せるな、etc... などの意見が存在するのが現実だ。そして、これらは多数派の意見であり、実際問題、子持ちの親が外出しづらいと不満を述べる現状がある。
上記の例は、世論が多数派の意見を代表しているだけで、道徳や道理にかなっていない、個人への自由の制限を表す。
ミルはここで、個人の自由を制限していい場合と悪い場合を、定義する必要があるとする。
自由の制限:自衛
ミルは、ここで、個人の自由の制限について、以下のように定義する。
人は、個人であれ集団としてであれ、ほかの人間の行動の自由に干渉するのが正当化されるのは、自衛のためである場合に限られる。
つまり、相手の意に反する力の行使は、それが他人に危害が加わるのを防ぐ場合にのみ許容されるというのだ。社会と個人は、これに抵触しない限り、いかなる自由も制限してはいけない。
また、この定義は、世話の必要な未成年者や未熟な民族には適用されない。このような未成熟の人間は、行動を制限し、保護されるべきであるとミルは述べる。
自由のもたらす利益:個人の成長=国家の成長
ミルは、前章に述べた定義で、個人の自由を最大限に広げることで、個人の成長を促すことができるとする。
自分の意見を自由に持ち、その意見を実行に移す、という自由を保障することで、人は個性を持ち、学んでいくことができる。
ミルは、個人とは国家であるとする。国家の構成員は個人であるからだ。
故に、個人が個性を自由に持って成長していくことは、国家としての成長に繋がるとする。つまり、社会や支配者が、個人の自由を最大限に保証することが、国家の成長に繋がる。社会と支配者に、国家の成長というインセンティブを与えることで、個人の自由の保障を動機づけるべきであるとミルは主張する。
自由の下の義務:限りなく正しく・公正に
一方で、ミルは、自由な個人は、ある一定の義務を果たした上で行動せねばならない。
まず、他人に危害を加える行為や、相手を誹謗中傷する行為や発言は許されない。さらに、意見を持つ際は、徹底的に根拠を探し、真理に近づく努力をしなければならない。これらの努力をしたうえで、穏健で公正な議論をする必要がある。
個人が自由を実現しようとするとき、上記の義務を満たさなければならない。
これら義務を設けることで、現代でいう差別やヘイトスピーチを制限することができる。
まずは自分の意見を持ってみる。そして、その意見に関する批判的・肯定的な科学的根拠を徹底的に探す。そうしたうえで、冷静に、相手に対して議論を投げかけてみる。もちろん相手の意見も聞く必要がある。
とすると、現代社会の例えば性差別や人種差別は、ミルの言う自由の範疇を超えた、制限されるべき行為であると理解できる。
特定の性別が優れている、特定の人種が優れている、これらは何の科学的根拠も持たない。さらに、差別的意見を主張することで、相手を不当に誹謗中傷することになる。
ミルの定義に従うならば、これらの行為は制限されるに値する。
個人の自由とは、最大限の義務を果たしたうえでのみ、実現されうる、高次元の権利であるのだ。
おわりに:多様性と成長
本著を読んで女史は、多様性は成長をもたらすという主張に改めて同意した。多数派が偉い、正しい、優遇されるべき、という固定概念は、民主主義国では一般的である。それどころか、少数派の意見を抑圧する動きさえある。これは、個人の成長ひいてはミルの言う国家の成長にはつながらない。
まずは、ミルの自由の定義に従い、人間が意見を発言するための義務を果たそう。事象を観察し、意見を持とう。意見を持ったら、否定的・肯定的両社の科学的根拠を探そう。そうして意見を根拠づけたうえで、公正な議論をしよう。相手の意見を論破して抑圧するのでなく、両者の意見をよりブラッシュアップさせていこう。これこそが個人を成長させるのだ。
現代日本に上記の義務を果たし、議論がして成長できている人はどの程度いるだろうか。自由とは、好き勝手になんでもかんでも発言し行動することではない。個人の自由とは、国家と社会の成熟に寄与しうる貴重な権利である。
我々は、自由を手にした以上、その義務を果たし、これを最大限に正しく活用していかねばならない。
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