こどもは先生
コロナ後遺症の治療で、耳鼻科に週一〜二回行く。待合室にいる患者の中には、必ず未就学児がいて、お母さんやお父さんと待っている。
治療が始まると、それはそれは大きな、よくあんなに小さな身体からこんな大きな声が…と思うくらいの、耳をつんざくような泣き声が聞こえてくる。
私も泣きたいよ…と思う。
大人だから、痛くてもガマンして、お礼を言って、こらえている。
こどもたちは一体なんですよね。
想いと行動が。
たくさんのことを教えてくれる先生のようだと思い、観察している。
待合室では絵本を読んでたのに、名前を呼ばれたとたん、「おうちにかえる」と言って、病院の入り口でしゃがみ込んだ女の子を見て、しみじみする。
大きくなった私たちの中にもウニヒピリ=インナーチャイルドがいるんだよなぁと思い、私は仲良くできているかな?と振り返る。
最近は、誰とも会わないから、私の中の小さい私と会話することが日常になった。
何を食べるか、何を着るか、何を買うか。
今なのか後か、どのタイミングでか。
声を無視して、頭だけで、もしくは、天気予報で言ってたから…などと、外側の情報だけで判断して行動すると、失敗することがわかってきた。失敗というか、ズレるのだ。最適なことが起こらない。
小さな小さなことの積み重ねが、ウニヒピリと私の信頼につながっている。
こういう人生の歩み方に気づけてよかった。
コロナ後遺症で立ち止まらなければ、気づけず、突っ走って、もっと命に関わることになっていたかも。
ユング心理学の夢分析を受け始めて数年経ってみた印象深い夢で、国もバラバラ、時代も未来現在過去と旅している私の前に、傷だらけの女の子の人形が現れるというのがあった。
人形は、床に投げ出されていた。
ズタボロで、服も破れて、体中キズだらけで、痛々しいのだが、それは過去から現在にやってきた小さい頃の私の姿だと、分析家が言った。
ショックを受ける私に、今ならその人形を抱きしめたり、ケアしてあげることができるかもしれない、と言って、その日の分析は終わった。
身体が不自由ということのつらさはあるが、今回の後遺症の体験は、私たちは、この世で生きて様々なことを体験するために必要な身体を持った存在なのだ、というのを思い出させてくれた。
身体がしびれたり急に重だるくなったりして動かなくなれば、「あ、今日はここまでですね」とか、「ああ、今日は外に出てこんな景色を見られて幸せ」とか、「今日は痛くてだるくて寝ているだけ、何かを見ることも読むことも辛くてできないけど、でも耳だけは大丈夫だから音楽は聴ける」とかいうふうに、その日の身体に合わせた体験を選ぶことができる。
何ごとも身体だ。
忘れていたけど。
忘れていたことを思い出したら、クリーニング。
ホ・オポノポノは常に共にある。
私たちは、愛を学ぶために生まれてきたんだなあ。
自然からの愛、人からの愛、世界からの愛…
自分への愛
それらは一方的なものではない。いつでも循環し、受け取り、与えることができる。
そして今ここも、死ですらも、通過点だなんて。
人形を拾いあげて、慈しむように。
身体は大きくなっても、誰もが小さな自分をケアできますように。
いつからでも始められる。
これからあなたたちは何を見て、どんな体験をしていくんだろうね。
診察を終えて泣きながら抱えられて帰る小さな先生たちに、心の中で声をかけた。
〜最後まで読んでいただき、ありがとうございます♪〜
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