ふわぁりと、暖かい空が広がりました。 春です。 緑の中に色とりどりの花が咲いています。トリたちが賑やかに歌い、アリたちがソワソワと浮かれています。 そしてウサギさんは、お店の掃除を始めます。 冬の間にすっかり溜まったホコリを払って、締め切っていた窓を拭きました。看板も新しく作ります。 ウサギの菓子屋 春のやわらかケーキあります さあ、早くケーキを作らないといけません。だって、みんな冬を越して腹ぺこでしょうから。 渇いた薪を何本か入れて、窯に火を起こします。
どっちへ行くのかわからなくなってしまった 生きるのか死ぬのか? そんな大層な話ではなくて たとえば 昼食に米を食べるのかパンを食べるのか はたまた麺を食べるのか わからなくなってしまって 何も食べられなかった そんな日が続いた それだけの話 それだけの話なのに どうして生きていったら良いのか 光も見えない
ふざけるなよ、と泣いた。喉が枯れるまで叫びたかったのに、口の中で消えていくだけの声しか出なかった。涙が視界を歪めて、ぼとりと落ちて枯れた。 喉の奥で唸る。 肌寒いベランダで、薄っぺらいシャツごと二の腕に爪をたてて縮こまる。近所の誰にも見られないように、しゃがみ込んで声を殺して、理性が涙を引っ込める。 部屋の中からは、変わらず騒がしいゲーム音。 今夜は、二人のための時間だと思っていたのに。夕飯だって、記念日だから手間をかけたのに。 もう無理なのかもしれない。 一緒
カーディガンの前をぎゅっと合わせて、震えながら昇る太陽を待つ。 永遠に止まらないかと思った涙はどうにか涸れた。腫れぼったいまぶたと、かぴかぴになった頬と、ぐしょぐしょの鼻水が、さっきまでの私を忘れさせてくれない。 五月初旬の朝はまだまだ寒くて、風が吹くたび耳がじんじんと痛い。 は、と吸う空気が熱を持った喉に冷たい。はああ、と吐く息は意図せず情けなく揺れた。 久しぶりに、どうしようもなく泣いた。 あてもなく歩くうちに海に出た。二時間近く歩いて、運動不足の足はもう歩け
チュッパチャップスという響きは、抜群に良い。用事もないのに立ち寄ったコンビニで、唐突に思う。 ディスプレイも良い。ぶすぶすと何本も刺さってツリーのような黒ひげの樽のような存在は、何味かわからないくじ引き的な要素も相まって、うっかり引き抜きたい欲をなんとも唆る。 一つ問題があるとすれば、僕がどうしようもなく飴が苦手だということだ。 一度口に入ればベトベトから逃れられないところも、口の中が甘ったるくなるところも、そもそも口に何かを入れっぱなしになるところから嫌だ。 コン
なんとも怪しいと思わないか? え、何が? ほら、彼女たちさ。これ見よがしに腕を組んで歩いてる。あれは絶対に演技だね。 演技って、何の。 もちろんカップルさ、偽装カップルなのさ。 偽装カップル。何のために? もちろん、俺たちに気付いたからだ。恋人同士のふりをしている。 なるほど。だけど、別に俺たちに見つかったから何だって言うんだ。わざわざカップルのふりなんかしなくなって良いだろう。 それはほら、俺から逃げるためさ。 どうしてお前から逃げる必要があるんだ。そも
触られるのは苦痛だ。よく知りもしない人間から、顔から身体から撫で回されるとストレスが溜まる。耳や尻尾を掴もうとする輩は、本当に他者への配慮が欠けている。 私は問いたい。お前たちは見ず知らずの人間に顔を撫で回されたらどう思うのかと。尻に近い部分を無遠慮に触られるのが嬉しいのかと。 今一度、考えてほしい。 ふん、と鼻から大きく息を吐く。それから、潰れたように伏せて地面に顎をつける。 「わんわ! わんわ!」ふにゃふにゃした声が近づいてくる。転ぶために歩いているようなチビが、
ひっそりとした森の奥、キノコの形をした美容室がありました。ふわふわのシッポが可愛いリスさんのお店です。 はじめのお客さんはウサギさん。小さな前足でコンコンコンとドアをノックします。 「あらウサギさん、いらっしゃい。今日はどうしましょう?」 「どうもリスさん、こんにちは。今日は髪を伸ばしてもらいに来たんです」 そう言うとウサギさんは鏡の前のイスにすとんと座りました。 (うーん、これは困ったな) リスさんは、ウサギさんの短い白い髪を見て、どうしたものかと首を捻
やあ、こんな深夜にどうしたの? あるいは君にとっては深夜ではないのかな。まあどちらでも構わないがね。 そんなことよりも、今日は何とも貴重な紅茶が手に入ったんだ。一緒にどうだい? ああ、誤解させては申し訳ないんだが、貴重と言っても決して高価な茶葉ではないんだ。ただ僕の好みを的確に突いた味というだけなんだよ。だから君にとっては何の感動もない、つまらないお茶かもしれない。 それでも良ければ、是非とも付き合ってくれよ。 湯を沸かす間、君の話を聞かせてほしいな。たとえば、今日
皿に乗った一目で手作りだとわかるシンプルなケーキを頬張る。 「うま。良いよね、ケーキ作れるのって」 「こんなの、ホットケーキミックスと卵と牛乳とココアと混ぜて炊飯器スイッチポンでおしまいですよ」 「すげーな炊飯器」 「おや、尊敬の眼差しが家電に奪われた」 気を使わない会話が楽で良い。 「なあ、これ食ったらちょっとエロいことしようぜ」 「しないよ。アホか」 「なんで」 「彼女持ちの男と、彼氏持ちの女で、エロいことは、しない」 「部屋に上げるのはアリなのに?」 「……それはま
「眼鏡変えたんだ。いいね、それ。前のより似合ってる」 向かいに座る先輩が言った。顔に熱が上がって耳まで真っ赤になるのを自覚する。 一目惚れしたセルフレーム。視力が悪く、超薄型にしてもフレームからはみ出してしまう分厚いレンズ。意味もなく外して掲げてしまう。 「自分の誕生日プレゼントで、ちょっと良いヤツ一目惚れしちゃって、でもレンズははみ出ちゃうんですよ、本当に目悪すぎて」 へらっと笑いながら早口に返す。眼鏡をかけてぱくんと口を閉じた途端、あぁ単にありがとうございますって可
ゆっくりと夜が近づく夏は、もう終わった。暗くなってきたと空を見上げた途端あっという間に夜が覆う、秋だ。 風は冷ややかに無関心を決め込んで過ぎる。優しい虫の音も、どこまでも重なれば今は少し苦しい。 上着でも持ってくれば良かった。着信を優先して電車から降りなければ良かった。駅のホームが工事のために騒がしくなければ良かった。電話しながら一駅分歩こうだなんて考えなければ良かった。 先輩の声が、独り占めしたくなるほど心地良くなければ良かった。独り占め、できるなら良かったのに。
明日から離乳食を始める。 まずは、10倍がゆの重湯の部分。早起きして小鍋でコトコト炊くのだ。そうすると食いつきが違うよ、と栄養士さんが教えてくれた。 長女のときも初めだけは、コトコトと鍋で炊いたかゆを小さな口に入れた。産まれて初めての一口を、これから何十年と続けていく一口を、できるだけ大切に大切に伝えたかった。 その想いが伝わったのかどうか、三歳になった長女は一人前の偏食家で一日三回の食事がストレスでしかない。 どれだけ頑張って離乳食を進めようが、どうにもならないこ