「社会は厳しい」は真実か?

「そんなんじゃやっていけんぞ」
「社会は厳しいんだ」
 こうした堕落しきった大衆仕草の再生産を見せられるたびに悪感情を抱いていたのはどのくらい昔であっただろうか。もう飽きてしまった。
 知能があまり高いとはいえない大衆が口を揃えて言う、この〈社会〉という言葉の正体とそれが及ぼす影響について、訣別の意志を込めて、文章として纏めて整理しておこうと思う。
 まずそもそもの話であるが、社会というのは二つ以上の同種の生命が存在していれば成立する概念である。あたりまえのことであるが、大半の人間が本来の意味でこの言葉を使用していない。
 国語ができないこの人種は巷間では〈社会人〉と呼ばれており、自らのその肩書きに誇りを持っている。見ているこっちが恥ずかしい。彼らの〈社会〉は時間的にも空間的にもとても小さなものであるが、彼らはそれをとても大きなものであると言い張る。あるいは本当に心からそう信じているのかもしれない。悲しいことだ。
 しかし、現実には〈社会〉の揺り籠の外にはそれより遥かに広大な世界が広がっている。彼らの世界の認知の理論はアノマリーの多い欠陥品だ。彼らはのこの大きさの認識の齟齬から発生する苦しみを、無職や障害者、外国人など〈社会〉の不参加者への差別の形で吐き出す。紛れもなく、八つ当たりだ。彼らこそが「甘えている」し、「現実が見えていない」。怠惰だ。彼らが差別の道具としてよく使う言葉が彼らを的確に表現している。滑稽だ。
 卑劣なことに、彼らはこの思想をまだ清らかな無職などの被差別者にも植え付け、共犯者に仕立て上げようとする。彼らの詭弁を真に受けて、〈社会〉は素晴らしいと妄想するようになれば、晴れて大衆の仲間入りをし、〈弱者〉と呼ばれるようになる。
 〈弱者〉は〈強者〉の〈社会的地位〉や貨幣に精神や倫理、実存の問題の答えがあるという妄想を希望とする。〈強者〉は〈社会的地位〉や貨幣の実際の虚しさを受け入れることができず、絶望し、〈弱者〉を差別する。
 〈弱者〉も〈強者〉も皆揃って貨幣に対し盲目で熱烈な信仰心を持っている。貯蓄や収入が大きい個体が魅力的に映り、そうでない個体を役立たずとして群から排除しようとする。交尾の相手もそれで決めるらしい。角や鶏冠が大きいとモテるのと同じ原理だ。このような習性を持っている動物が、生物学では私と同じ動物に分類されているらしい。信じ難い。
 貨幣とは、国家という仮想的な概念が発行する、二重に仮想的な概念であるのだが、どうやら理解力の足りず、あたりまえの物の道理や本質、善し悪しが見えない人間は、その仮想性に無自覚のまま、精神や倫理、実存などの問題をこの虚しい数字に仮託するらしい。いや、そもそも彼らには精神と呼ぶべき精神は備わっているのだろうか。もはや彼らは同じ人権を与えて平等に尊重すべき動物ではないのかもしれない。人権を定量的に公平に分配することはできないだろうか。
 以上のように、彼らは頭が悪い。弱者(〈弱者〉と〈強者〉を合わせたもの)に慈悲深く優しく接するのは結構だが、彼らが増殖しすぎるとそれを補う者の負担が増え、時間の流れに伴い最低限必要となる共同体を維持管理の為の思考ができなくなる恐れがある。
 生命として、大衆には、精神や実存、倫理の問題に、逃げず、誤魔化さず、取り繕わず、目を逸らさず、向き合ってもらいたい。

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