魂はどうしたがっていますか
去年の話だ。塩田千春さんの個展、「魂がふるえる」を観に六本木まで行った。金曜日の夜だったから空いてるかなあと思ったけれどそれなりに人はいた。
色んな気になる個展があったものの、この個展はどうしても観にいきたかった。なぜなら生と死、魂を大きなテーマにおいていたからだ。これまでにずっとエッセイにも何度も書いてきたほど自分が小さな頃から考えていた事、その目に見えない漠然としたものを、芸術家の方達はどう捉えているのだろうととても気になっていたからだ。
圧倒された。周りのみんなは事あるごとにスマホを取り出して写真を撮っていた。でも、命がけで生み出される作品からは恐怖さえ覚えて、私はほとんどの作品にカメラを向けるのさえ億劫だった。それくらい吸い込まれそうな魅力を感じた。
自分が命を感じるために大地の中で、街の中で、泥の中で、作品の一部となる塩田さんの姿を映した写真が鮮烈に残った。
シャワーでは流しきれない巨大な泥まみれのドレスや、血管、人間関係、宇宙、その象徴のように会場内に縦横無尽に張り巡らされた赤や黒の糸。そして生きる私たち一人ひとりのモチーフのようにその糸に結ばれ、囲われていた靴、椅子、舟、スーツケース。
とてつもなく大きくて実態が解き明かせないものを塩田さんはこのように表現するんだ、とその時は感動で胸がいっぱいになった。人によってこの景色がどう映っているんだろうと思ったけれど、HSPの私には巨大な生き物のように生々しく映っていた。ただ力強くそこにあった。恐れない強さだった。私はその強さにふるえた。
そしてもう一つ印象に残った場所があった。一番最後にドイツの10歳の子供たちが、「魂」について議論している映像が流れていたコーナーだ。衝撃だった。
小学生たちは健気に会話を交わしていた。まっすぐだった。
「魂は自分をよくさせようとしている気がする」
「理由もなくイライラする時って、魂が正直でいようとしていると思う」
「互いが思い合う時、魂は行き来していると思う」
そんなことを思うままに話している子供たちに衝撃を受けた。
日本でこんな事やったらどうなるだろうか。クラスでやったら間違いなく同調圧力で破綻しそうな気がする。それぐらいそのドイツの子たちの会話からは清々しさを感じた。
今、保育士として子どもを見るたびに思う。この子たちがどうか健やかに育って欲しい、と。ドイツの子にもそういう感情を抱いた。
私もそう思われて育てられてきたのだろうか、と思うと自分の人生について考えずにはいられない。
現実の事ばかりではなくってそういう目に見えないものの事を話せる時間は、人間が生きるために大切だと思えた時間だった。
読んでくださりありがとうございます。 少しでも心にゆとりが生まれていたのなら嬉しいです。 より一層表現や創作に励んでいけたらと思っております。