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日本語とフィンランド語は親戚関係?『ことばは国家を超える』は世界観を変えてくれる本だよ。

我が家の子どもたちは子ブタが主人公の「ペッパピッグ」という海外アニメーションが大好きで、毎日欠かさず鑑賞します。それも英語で。

日本語ではないのに意味が理解できているのか?と疑問ではありますが、ともかく楽しく観ていて、「ダイナソー!」とジョージの真似をしたり、英語の歌をまねて歌っています。いきなり英文法を突き付けられて英語嫌いになるよりはずっと良いと思っています。

それにしても、どうして英語の文の組み立て方や発想方法はこんなにも理解しにくく取っつきにくいのでしょうか?「てにをは」がなく、「私は話した彼と」というような奇怪な語順、「私は1人の兄を持っています」のような奇妙な表現方法・・・。単純に文法と単語を丸暗記するだけでは乗り越えられないような、日本語とは大きく異なる発想方法が英語にあるのは間違いないでしょう(小説家の清水義範が『永遠のジャック&ベティ』でその点を鋭く突いて笑いに変えていたことが思い出されます。)。

最初に英語に触れたときに感じるあの不可解さや、人によってはアナフィラキシーショック並みであろう拒絶感は、この日本語との差異の大きさにあると思わずにいられません。特に、この『ことばは国家を超える』(田中克彦,筑摩書房,ちくま新書,2021年4月10日,第1刷)を読むとなおさらです。

『ことばは国家を超える』という本は、日本語と近縁関係があり、日本人にとっては学びやすいという諸言語の総称であるウラル・アルタイ語とその研究史を活き活きと紹介してくれています。この記事では、『ことばは国家を超える』の内容紹介と感想を書いていきます。

1.ウラル・アルタイ語とは?

ウラル・アルタイ語には、「てにをは」に相当するものが存在したり、「私は兄を持っている」ではなく「私には兄がいる」と表現したり、aやtheなどの冠詞が無い等、日本語と基本構造が共通しているそうで、朝鮮語、トルコ語、モンゴル語等が含まれ、ユーラシア大陸に広く分布します。(本書には分布図も掲載されていますよ)

著者の田中克彦はモンゴル語の専門家で、曰く、ウラル・アルタイ語に触れれば、日本語との類似性にすぐに気づくことができるそうです。そして、「単語さえ入れ替えれば、文意が通じるくらい、文の組み立てが日本語とほとんど同じなのに驚いてしまうほどだ。」と語ります。興味が湧きませんか?外国語と言えば、どれも英語のようにやっかいで理解に苦しむような遠い世界の言語というイメージですが、日本語と似ている外国語であれば、学習もはかどるかもしれません。

驚きなのは、フィンランド語やハンガリー語というヨーロッパの言語までこれに含まれているというのです。てっきりヨーロッパの言語は全て英語やドイツ語等のインド・ヨーロッパ語の仲間なのかと思っていましたが、ヨーロッパにインド・ヨーロッパ語を話す人たちが入ってくるより前に住んでいたウラル・アルタイ語を話していた人たちの名残ということのようです。まさかヨーロッパにも日本語の親戚に相当する言語があるとは、思いもよりませんでした。

2.ウラル・アルタイ語研究は言語学研究の核心部分を揺さぶる?

そして話題は、言語の枠を飛び出して、ウラル・アルタイ語の研究が、インド・ヨーロッパ語を言語の完成形とみなす世界観へのアンチテーゼとして生まれ展開してきた歴史や時代背景にまで広がります。言語版のオリエンタリズム、といったところでしょうか。

著者は日本の言語学研究史も振り返りつつ議論を深めながら、インド・ヨーロッパ語とウラル・アルタイ語を対置させていきます。そこでの対比は以下の2軸に整理されます。インド・ヨーロッパ語-音韻法則重視という軸と、ウラル・アルタイ語-類型論重視という軸です。それは単に言語同士の仲間関係の分類だけでなく、どのような方法で分類するか、科学的な態度とはいかなるものかという問題にまで関係する対立軸となっています。

著者は、音韻法則を重視する青年文法学派を、言語理解に不可欠なはずの日常感覚を失っているとして批判します。科学的手法も使い方を誤ると教条主義に陥るという戒めです。(またも清水義範を引き合いに出しますが、彼は、英語の起源は日本語であるという学説を唱える比較言語学者の珍妙な論文という体裁でパスティーシュ小説を書いていました。その小説で笑いの餌食にされているのが、まさに教条主義に陥ってしまった音韻法則重視の態度でした。)

続けて著者は、言語は言語単独を抜き出して理解することはできず、文化や歴史や日常生活や政治とも不可分であるからそれらをも含めて研究すべきと、青年文法学派が主流を占める日本の言語学界にも苦言を呈します。

ウラル・アルタイ語について語るということは、言語学界の問題、それからその時代背景についても触れざるを得なくなるということでしょう。インド・ヨーロッパ語とその研究という絶対強者が整備し支配した世界に対抗するために、弱者が挑み独立を図る中で生まれてきたのがウラル・アルタイ語の研究だからです。

3.感想~ウラル・アルタイ語が教えてくれるもうひとつの豊かな世界~

著者は、インド・ヨーロッパ語とウラル・アルタイ語が繰り返し、文明と野蛮、先進と後進というように対比されてきたことを示します。

歴史を振り返れば、主流派以外はどうしても切り捨てられ忘れ去られがちだということを思い出します。世界史の主流は西洋史とされますし、日本史の主流はほとんど関西史です。西洋-キリスト教-市場経済主義というごく一部の立場から見た歴史や世界が「標準」として大手をふるう一方、そこに当てはまらない、例えば東洋やアフリカ、中南米、あるいは仏教・儒教やイスラム教、贈与経済といった異なる世界への理解は広がっていません。それどころか、同じ西洋でもケルト文化をはじめとした西洋域内の歴史の古層に眠る豊富な多様性すら忘れられているとの指摘は絶えません。日本においても、西日本と東日本、琉球・アイヌ、伊勢と出雲等々、言葉も文化も歴史も多様性がありますが、近代化とともに忘れられてしまっています。

ただ、それらの多様性は、主流の陰に隠されて忘れられてしまっているだけであって、まだ消えてなくなってしまったわけではありません。ウラル・アルタイ語という言語群もまだ消えてなくなってはいません。私たちが見えていないだけです。見えていないだけで、私たちの仲間の世界は足元に広く存在するのです。

本書の中で、言語が人の心情や感性(ものの感じ方)を規定することが語られています。日本語と同じ構造の言語を話す人々=日本人と同じ感じ方をする人々が世界にはたくさん存在するという重要な指摘です。

つまり、英語のあの発想法の分かりにくさを共感してくれる仲間が日本人のほかにもいる、ということでもあります。

日本語はこの主流以外とされたウラル・アルタイ語に含まれる言語ですが、そのような認識はこの国の一般社会に浸透・定着するには至っていないのが現状です。まさに忘れられた存在に成り下がってしまっているというわけです。

思うに、その結果、日本人は世界には自らの言語、文化を共有する人々がいるという事実を見失い、日本だけが世界の中でガラパゴスのように特殊化したと思い込んでしまうに至ったのではないでしょうか。昔から日本人は、日本文化や日本語の特殊性を強調するのが好きなように見えます。近年の品のない「日本凄いネタ」にしても、実は日本人の無知を露わにしてしまう言説ではないでしょうか。

これだけ多様性という言葉が叫ばれている現代ですが、果たして私たちは私たち自身が関係する多様性を知ろうとしているでしょうか?多様性を大事にする、とは自分ではないどこかの他の誰かのことも大事にしましょうね、という程度の意味に捉えていないでしょうか?

この『ことばは国家を超える』を読み、ウラル・アルタイ語のことを知れば、私たち自身こそが多様性の一部であることが分かります。アジアはもちろん遠いヨーロッパにまで日本語と共通要素を持つ言語を話し、同じようにものを感じる人たちが暮らしていることを思うとき、まずは私たち自身とその仲間についてもっと理解を深めることが、多様性を大切にする社会の第一歩になるのではないかという気がします。

今まで私たちが見ていた外国語の世界は、インド・ヨーロッパ語の世界にとどまっていたのではないでしょうか。この本を読んだ後にはきっとこれまで私たちが知らなかったウラル・アルタイ語という豊かなもうひとつの言語世界が目の前に広がっている事でしょう。その意味で、この本は世界観を変えてくれる素敵な一冊です。

いかがでしたでしょうか。韓国語でもモンゴル語でもトルコ語でも、何かウラル・アルタイ語を学んでみたくなりませんでしたか?気になった方はぜひ読んでみてくださいね。





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