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執着はとことん突き詰めた方が良い

2018/05/07
今日から僕はノートに日々の考えを投稿し始める。

しかしながら本当に恐怖である。
僕は昨年初めてブログというものを書いた。
その時ははてなブログに書き、そのリンクをFacebookで共有していた。

共有するやいなや、
非難の嵐に巻き込まれた。
「なんて酷い文章だ」
「クリックする時間を返せ」などなど。

特にこういって来たのは、
文章を書くことにこだわりを持つ友人2人である。
特に、1人はフリーライターの駆け出しで、
10年以上ブログを書いている。

当然僕はかなりのダメージを受けた。
そもそも僕は数年前まで
世界中の誰からも嫌われたくないと
本気で考えていた。

こんなに非難が飛んでくるなんて、
当時の僕にとっては、
寝付けなくなるようなショックだった。

僕はよっぽど文章が下手なんだなぁと実感する。
最初は「コイツらとは人種が違うんだ」
程度に思っていたが、

次第にあることに気づいた。

僕の文章は、一定の芸術系の人々と、
理系の人々にはかなりしっかり通じることが多い。

しかしながら、
文系の人々(特にビジネス寄り)には、
全くと言って良いほど通じない。

通じる人からは、
例え話の仕方などはよく褒められるが、
通じない人からすると、
何を例えたのかが1mmもわからないらしい。
僕は抽象的すぎるらしい。

人種が違う。確かにそうなのかもしれない。
でもこれで本当に良いんだろうか。

僕は日本人でありながら、
多くの人と日本語の文章を交わせないのだ。

これは良くない。
なんとかしなくちゃと思い続けて1年間。

とにかく客観的に自分を見るために、
カメラに向かって喋り、編集し、
YouTubeに投稿するということを続け、
人に伝えるということを少しずつでも続けてきた。

はじめの方は本当に、
自分で編集できなくなるくらい
支離滅裂な動画しかできなかった。
続けて行くにつれて自分の中のコツがつかめてくる。
最近やっと、「毎回思いますが喋るのが上手ですね」
とYouTubeでコメントをいただけた。ありがたい。

文章に関しても続けたかった。
怖くて続けることができなかった。

そして、周りには、「執着するな」と言われ、
半ば文章を書くことを諦めていた。

しかし昨日(2018/05/07)、
たまたま知り合ったクリエイター系起業家に、

「それはもっと深く執着するべきだ。
君は文章を書くことに執着しているのだろう?
君は文章でそこまで非難を
受けることができるのだろう?
それはある意味とても鋭い文章だ。
デザインもアートも、本質的に
解釈と翻訳だと僕は考えている。
君の例えが芸術家に伝わるのは、
きっと彼らが解釈と翻訳の能力に長けているからさ。

それに本当にダメな文章なら、
誰も興味すら抱かない。

僕はね、自分がコントロールできる範囲の執着は積極的に追求すべきと思っているんだ。

君が文章に対して、強い執着を感じるなら、
とことん突き詰めた方が良い。

世間からどの程度嫌われ、どの程度好かれるかは、
尖り方の加減次第さ。君が決めると良い。」

凄まじい稲妻が僕の中を駆け巡った。
僕は、文章を書いていいのか。追い求めていいのか。

落合陽一氏は言った。
「人間にできてAIにできないことは、
人をモチベートすることだ。」

僕は1人のクリエイターにモチベートされた。
こんなに素晴らしい稲妻を受けたのは、
数年ぶりである。

前回の稲妻は、
「人生は全てにおいて自分の選択で成り立っている。
仏教で言えば神がすでに道を作っている
故に僕らは自由だ。
量子力学の観点からもそう言える。
だから自ら選択し、行動し、
責任と果実を受け取れ。」

と、自分の心に浮かんだ一節である。

これは、アニメPSYCHO-PASSの槙島聖護のセリフ
「僕はね、人は自らの意思に基づいて行動した時のみ価値を持つと思っている。だから様々な人間に秘めたる意志を問い正し、その行いを観察してきた。」

に、インスパイアされたパラダイムシフトである。

このような稲妻を受けたからには、
無視しようにも無視できない。

僕は今日から執着にまみれる。
たとえどんなに文章が下手であろうが、
どんなに非難されようが、
どんなに好かれようが。

夏が近い24歳の夜。



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