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【短編小説】夕暮れの海を眺めて

17歳最後の日、僕は海に思い出を流した。
行くあての無い僕の思い出は、どこの誰に届くのだろうか。

都会の高校生活は、二年半が過ぎた今でも慣れない。島で育った僕は、父の仕事の関係で東京に引っ越してからというもの、自分というものが分からなくなっていた。島で仲の良かった幼馴染の瑞稀は、そのまま島の高校に進学した。
僕は、彼女のことが好きだった。でも、島で培った彼女との時間は、僕と彼女を恋人という言葉で表すことなど許されないような、密な時間だった。

島で過ごす最後の日、彼女は僕と口づけを交わした。金色に輝く海辺の浜で、かすかに震える彼女の唇を、僕は静かに受け止めた。
まだ何も知らない15の僕たちは、ここが世界のすべてかのように感じていた。彼女の頬を伝うその雫に、夕暮れの陽が差し込む。その雫は、滴り落ち、海に帰って行く。
僕たちの思い出は、すべてこの海にある。

島を出て後、島での彼女の話を聞いたのは、半年後の夏だった。
癌だった。彼女は僕に隠していた。余命4ヶ月。僕が島から離れる3日前、医師からそう告げられたらしい。僕は彼女の異変に気づけなかった。
小さい頃からお互いを知る仲だ。裸でお風呂に入り、身体を洗い合うこともあった。同じ布団で寝たこともあった。僕が島でいじめられていた時、助けてくれたのは彼女だった。彼女の母親が亡くなった次の日、気丈に振る舞う彼女が一人、校舎の裏で泣いている姿を見たのは僕だった。
何もしてやれなかった。彼女が抱える孤独を、僕は受け止めることすらできなかった。
彼女の最後を知ることもなく、彼女がもういないという事実だけを知っている。
島に帰れば、また彼女に会えるかもしれない。いつもの道で、曲がり角で、あの浜辺で。
結局、僕はその後二年間、島へ帰ることはなかった。自宅、学校、塾へと行くだけの日々だ。
何かが変わるわけでもなく、ただ繰り返される日々だ。深夜に聴くラジオが唯一の逃げ場だった。ラジオだけは、どこにいても僕を違う世界へと連れていってくれるようで、とても好きだ。
そして、繰り返される日々が、次第に島の記憶を消してゆく。
砂で作られた城は、波にかき消される。東京で過ごす日々が波ならば、いつかは島の記憶が消えてしまう。彼女の生きた証すらも。

僕は高校三年の夏、島に帰る決意をした。帰ると言っても、本格的に帰るわけではない。1泊。受験勉強の息抜きとして、島へ一泊だけ帰ることを許された。幼い頃からお世話になっていた知り合いの家に泊めてもらうことが条件で、母に手土産を持たされた。

フェリーで島へ向かう途中、一羽のカモメに出会った。このカモメも島から出てきたのだろうか。僕とこのカモメは少し似ているかもしれない。
どこかへ向かおうとして、ただ一人飛び去ろうとした。だが結局、一人で生きていくことなどできず、皆のいる場所に帰って行く。群れで鳴く声にかき消され、孤独な鳴き声は、誰に届くこともなく、空に響き渡る。その声を、ただ一人、受け止めてくれる人を求めて、空を飛び続ける。

島へ着くと、何も変わらない島の姿に、少しの安堵と、虚しさを感じた。何も変わらないこの島で、確実に変わった何かがある。自然は残酷なほど、その変化に無関心だということを、まざまざと見せつけられたようだった。

知り合いの家につき、近況を話すうちになんだかんだ時間は過ぎ、あっという間に島での時間は無くなってしまった。
帰りのフェリーの最終時刻は夕方6時。僕はその前に、どうしても寄りたい場所がある。彼女と最後に時間を過ごした、あの海辺の浜へ。

すでに陽は傾き始め、遠くではひぐらしが鳴いている。
彼女と最後を過ごしたこの浜に、僕は今、一人で立っている。何も変わらないこの浜の景色。あの時と同じ、金色に輝く海。この海の波は、僕たちの思い出を綺麗に洗い流してしまうのだろうか。何もなかったかのように、全て。
彼女と過ごした最後の時間。
あの震える唇も、吐息も、金色に輝く雫も。
僕は自然と涙を流していた。
嗚咽が止まらなかった。
あまりにも無情に過ぎ去るこの世界の中で、確かに僕たちが存在していた過去すらも消えてしまうのか。
せめて、彼女が生きた証は残したい。
世に名を知られることもなく去っていった、脆く強い女性が生きた証を、僕だけは残したい。
後ろの方で僕を呼ぶ声が聞こえた。
この時間帯、ここの浜に来る人間など、この島には存在しないはずだ。僕と彼女だけが知る、この場所に。
僕が後ろを向くと、制服姿の彼女がそこには立っていた。
胸のリボンは、確かに僕たちの中学校のものだ。
しかし、そんなはずはない。彼女は、もう、既に。彼女は僕に微笑みかけ、ごめんね、と、一言だけ言葉を発した。
どうしたら良いか分からない僕に、彼女はゆっくりと僕に歩み寄り、優しく抱擁をした。
僕はまた、彼女に受け止められてしまったのか。離れ、彼女を見ると、頬を伝う涙が再び輝いていた。僕は彼女を抱き寄せ、唇を重ね合わせる。まだ彼女は震えていた。そうか、怖かったのか。ごめんね。
彼女は僕に微笑みかける。
晴れやかなその顔を見て、僕も彼女に微笑みかける。僕はまた、彼女を熱く抱擁した。
僕たちの涙が、頬を伝い、海へ滴る。

その涙が海へ落ちた瞬間、僕は浜の上で目を覚ました。
あたりはすでに薄暗くなり始めている。フェリーの時刻まで、あと10分もない。僕は走った。次、この島に来るのはいつになるか分からない。見慣れた風景を横目に、この島へ別れを告げた。

フェリーへはあと1分のところでギリギリ乗り込むことができた。汗だくだったので、テラスで風に当たりながら少し涼むことにした。僕はなぜあの浜で寝ていたのだろうか。何かがあったような気がするが、思い出せない。
ただ、なぜか、胸が妙に温かい。誰かの温もりを感じる。ふと、一羽のカモメが飛んできた。行きもこのカモメを見かけた。最後に別れの挨拶にでもきたのだろうか。粋なカモメもいるもんだ。
ふと、カモメが口に何かを咥えているのに気がつく。カモメはその咥えている何かをポトリと落とし、飛び去っていった。それを拾い上げると、すぐに何かがわかった。僕たちが通っていた中学校の制服のリボンだ。なぜこんなものをカモメが落としていったのか。何にせよ、ここに落としていくわけにもいかない。僕は名前を確認するために、リボンを裏返した。
そこには、ありがとう、と、それだけが書いてある。
その文字を見た僕は、なぜだか涙が止まらなかった。

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