小林秀雄 ~天才を紹介する天才~

中学時代、詩人のランボーや作曲家のモーツァルトに惹かれたとき、自然と目に入ってきたのが「小林秀雄」の名だ。

ランボーの場合、購入した詩集『地獄の季節』(岩波文庫)の訳者が彼なのだから当然である。

その後、「様々なる意匠」や「無常という事」を読んだが、小林の特徴を掴めずにいた。

彼の持ち味は何なのだろうか?

 

一つだけ言えるのは、小林は天才的な人物を紹介するのが上手いということだ。

本記事の副題は、そういう意味である。

ランボー、モーツァルト、ゴッホといった、それぞれ詩、音楽、絵画における極めて鮮やかなイメージの人物をテーマに選んでいる。

この時点で、戦略的な上手さがあると言えよう。

こうした流れで本居宣長を持ち出されると、さぞかし鮮やかな人なのだろうと期待がわいてくる。

 

以上のような'紹介者'としての才能により、『なにもかも小林秀雄に教わった』(木田元)という本まである。

だが天才を語りたがるのは、ナルシシズムの一種と見なされやすい。

天才を語ることで天才と自分を同一視したり、天才の天才性を理解している自分をアピールしたりするのは一般的によくあることだ。

そんな事情もあってか、『ドーダの人、小林秀雄』(鹿島茂)という本も出ている。

ドーダとは、「自己愛に源を発するすべての表現行為」のことだそうだ。

 

小林秀雄は、巨人の肩に乗っているだけの人なのだろうか。

もしそうだとしても、それはそれで凄いことだ。

巨人の肩に乗るのは巨人ではないかもしれないが、絶妙なバランス感覚と体幹の強さが必要なのである。

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