オッペンハイマーと人文学の危機
「原爆の父」、オッペンハイマー。原子爆弾などというものを彼が作ってしまったのは、科学のことしか知らなかったからだ、などと思ったら大間違いである。ロスアラモスで世界初の原爆実験が行われた際、巨大なキノコ雲を前に彼の胸に去来したのは、なんと『バガヴァッド・ギーター』の一節だったという。若い頃は自作の詩も発表していたオッペンハイマーは、いわゆる文系の人間以上に人文学への造詣が深かったのだ。我々はこの事実をもっと真剣に受け止めなければならない。人文学は原爆製造を止められなかったという事実を。
もちろん、このような図式化は現実をあまりに単純化しすぎている。しかしながらオッペンハイマーの存在は、別の意味でも人文学の立場を危うくするものである。というのは、彼の存在は良くも悪くも非常にドラマチックだからだ。たとえば坂本龍一の「オッペンハイマーのアリア」は、上述の原爆実験を回想する彼の映像が流れる中で演奏される。その模様は、すこぶる神秘的ですらある。音楽も広い意味では人文学に含まれるとすれば、人文学は原爆製造を止められなかったばかりか、「原爆の父」に対して過剰な装飾を施してしまっているのではないか。
いずれにせよ、現実は単純ではない。現実を正しく理解するには、対象についての正確な知識が必要だ。もし手っ取り早く知識を得たければ、『90分でわかるオッペンハイマー』(青山出版社)が読みやすいだろう。だが哲学者や思想家を扱うこのシリーズに「原爆の父」が入っていること自体が、ある種の危機を示しているのかもしれない。
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