「憧れは理解から最も遠い感情だよ」はその通りである、というお話

突然ですが、今日はBLEACHの藍染惣右介の台詞 「憧れは理解から最も遠い感情だよ」はその通りである、ということについてお話しします。

皆さんは誰か憧れている方は居ますか?

「こうなりたい」「この人みたくなろう」という感情、子供の頃なら誰しもが一度は持つものです。
私もありました、戦隊ヒーローやジャンプ漫画に出てくるヒーローたちに対する憧れはありましたし、それこそ現実でもプロテニスの選手に憧れました。
今だと錦織君やナダル、フェデラー辺りが挙げられますが、私が憧れたのは90年代の松岡修造、サンプラス、アガシ、チャン辺りです。

しかし大人になった今憧れの人が居るかと言われたら少なくとも私には居ません、誰かに憧れたってその人に決してなれないことが分かっているからです。
そもそも憧れとは読んで字の如く「童心(どうしん)」、即ち子供の心のことを指しており、子供とは何かに憧れを持って生きることも少なくありません。
ではなぜ憧れを持つかというと、その憧れている人物が自分にないものを持っていて、それが大変に羨ましくて仕方ないという劣等感から来ているのです。
憧れと劣等感は表裏一体で、相手を自分とは違う雲の上の特別な人だと思うことはそれになれない自分はダメなんだと認めてしまっているのと同義でしょう。

もっとも、このセリフを言った藍染惣右介はあくまで自身の裏切りを正当化する悪党の理屈として言ったに過ぎず、状況次第では別のことを言っていた可能性もあります。
日番谷冬獅郎はこの後狼狽して卍解を使って反撃を試みるも返り討ちに遭うのですが、なぜここまで怒るのかというと冬獅郎が惣右介に憧れを抱いていたからです。
理想の上司だと思っていた人がいざとなれば平気で部下を殺して自分の死を偽装する悪党だと知り、イメージが粉々に砕け散ったのではないでしょうか。
でもそれは逆にいえば冬獅郎が勝手な理想像・偶像を作り上げて崇拝していたに過ぎず、それが崩された途端に裏切られた・失望したという思いを抱くのでしょう。

これと似たような台詞にスナフキンの「だれかを崇拝しすぎると、ほんとうの自由は得られないんだよ」がありますが、これも意味するところは同じです。
その人の頭の中で勝手な偶像を作り上げて太鼓持ちのようにして祭り上げると、そのイメージに縛られてしまい身動きが取れなくなり思考停止してしまいます。
新興宗教の信者やアイドルのファンなどもこれと似たようなもので、特定の人を祭り上げるとその人のことを途端に正しく引いた目で見れなくなってしまうものです。
だからこそ、ファンがいざその憧れの人と間近に知り合って表のイメージとは違うことを知った時にギャップで戸惑うことが多くなります。

それこそ有名YouTuberでいうならヒカルさんがかつてファンの子を一度自分のチームに演者としてスカウトして失敗したという事例がそれではないでしょうか。
名前は挙げませんが、その人はヒカルさんが立ち上げたブランドの服を上下セットで買って着て、ヒカルと会えないかとわざわざ東京まで行って遭遇する子です。
まだ浪人生で若かったこともあったのでしょうが、私はその子がチームネクステに入る動画を見て「あ、これは失敗するだろうな」と思いました。
ファンの子をチームに入れることが悪いわけじゃなく、ファンであることと演者としてチームに貢献して利益を生み出すことは全くの別物だというのを双方が理解していなかったことが悪いのです。

もちろんファン上がりでも凄い才能があって成功する人はいますがそんな人は一握り、ほとんどが結局は上手くいかずに辞めてしまいます。
そしてその子もやはり上手くいかず、原因は不明ですが辞めることになってしまい、ヒカルさんとしても損失を生み出す形となってしまいました。
憧れてなったYouTuberという職業の理想と現実は違っており、そのギャップに苦しめられて上手くいかずに消えた人は星の数ほどいることでしょう。
そのファンの子も結局は消えていったYouTuberのなり損ないの1人であり、憧れのまま何の才能も持たずに大海へ漕ぎ出すことがどれだけ危険かを思い知らされたことと思います。

また、それこそ映画監督してもお笑い芸人としても有名なビートたけし(北野武)は映画批評家・蓮實重彦氏との対談の中で「1番のファンが1番足を引っ張る」とも仰っていました。
バイク事故で左半身が麻痺した時、それまでたけしさんのファンだった方々は一斉に掌返してアンチになり叩き始め、また元々アンチだった人はここぞとばかりに叩いていたとのこと。
「他人の不幸は蜜の味」と言いますから、実は過激な指導者よりもそれを祭り上げてしまう民衆の方がよほど残酷で怖いということをあの事件は示していたのではないでしょうか。
このように、自分を応援してくれる人の存在は大事にしなければいけない反面そこに阿ったり依存したりするといざ何かあった場合に簡単に裏切られることを意味します。

私の場合もさほど酷くはないのですが、このように文章を書き続けているとそれに憧れを持つ人がどうしても交流を持ちたいと近づいてくるものです。
そしてよく「どうしたらあなたのような文章が書けますか?」「あなたに追いつき追い越したいです」と言われますが、私はその言葉を額面通りには受け取りません。
何故ならば本当に私に追いつき追い越したい、文章を書けるようになりたいのであれば私にそう言う前に既に実行しているはずだからです。
口で「〜したい」と言っている時点でまだまだだということですし、世の中私より凄く上手い文章を書き、それを生業にしている人はごまんといます。

私だって別段誰かに憧れて今の文章書きに至ったわけではなく、日々の暮らしの中で思ったことを素直に書くという行為を何度も繰り返してきただけです。
憧れの人なんかいないし、憧れたってその人の文章はその人にしか書けないから、精々技術や語彙の部分しか盗めるものはありません。
その作家の内面や思想を理解したり真似たりすることなんて到底できないし、それは大変その作家に失礼であると自戒しています。
誰かに憧れるのではなく、その人の持てる技術を盗み抽出して自分のものへと昇華することが何事においても大事だと思うのです。

そうすればその人が自分のイメージと違っても幻滅することなく、自分軸で生きることができるのではないでしょうか。

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