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【天才】野村克也の「無視・称賛・非難」の教育理論やイチローの自己対話は自己肯定感の問題を解決できるか?結局のところは「仕組み」「構造」の問題である【凡人】

こないだ私が書いた自己肯定感の記事に関して取り上げてくれた方がいる。

とりあえず私のような偏屈野郎の記事に反応していただいたことをまずは感謝申し上げるとして、今回はこの記事に対する私なりの更なるアンサーを出しておこう。
決して全否定しているわけではないのだが、個人的にはどうにも引っ掛かりの多い内容ではあるのだが、まず反論された点に関してはまあその通りではある。

言いたいことは理解できる。けど世代論という話で答えを出すのは正しいかどうかは正直わからない。というのは「最近の若いものは」はクレオパトラの時代からのお約束だったからだ。

確かに私が出した世代論に語弊があったことは認めるが、問題は自己肯定感を解決するための方策に野村克也の「無視・称賛・非難」の教育理論を持ち出していることにあり、どうにも議論の本質から外れている気がするのだ。

もう少し踏み込むと野村克也の言葉に帰着する。いわゆる無視・賞賛・非難だ。

そしてその後イチローと野村克也の言葉や考えをきっかけとして「自己評価と他者評価」をどう捉えるか?というところに言及しているのだが、それで解決できるなら今頃とっくに自己肯定感の問題は解消されているだろう
そもそも今ではその意味も分かってないで使う人が多くなっている「自己肯定感」という言葉だが、事の発端は1994年に高垣忠一郎という臨床心理学者が打ち出した「ありのままの自分を肯定する」という概念だ。
更にその後の研究によると、どうやら自己肯定感の問題は特に日本において顕著であり、海外諸国に比べて日本人は自己肯定感が低い人が多い傾向にあるというデータが出ているらしい。
しかも子供のみならず大人の世代に関しても同様の問題があるようで、確かに「世代論ではない」という一点においてはこの人の言うことは正しいが、それ以外の部分がどうも私は違うのではないかと思うのである。

いわゆる自分との対話や自分の今の位置付けを冷静に問いかけることだ。よく自己肯定感が低い人は万事「僕はダメだ」と評価している気がする。それは正直自己対話が少ないと言える。Aの部分は全く足りてない、Bの部分は平均以下、Cは平均、Dは強みなど分類すると自己評価はさまざまな切り口で採点できる。

自己肯定感が低い人は確かに万事において「僕はダメだ」と評価している傾向があるが、その原因を「自己対話の少なさ」に求めるのははっきり言って筋違いの見当違いである
自己対話の少なさが原因で自己肯定感が低くなるのではなく、私はそもそも学校教育・家庭教育をはじめとした戦後日本の教育の「仕組み」「構造」の問題ではないだろうか。
まさか、ちょうど昨日書いた学校教育に関する私の記事と繋がってくるとは思わなかった。

この記事にて私はこのように書いた。

もちろん私だって学生時代に尊敬できる教師の1人や2人はいたが、「学校」という「没個性の大量生産工場」自体はいつなくなってもいいものだと思っていた。
そんなくだらないものに縛られるような生き方なんかして、大人の思う「理想」とやらの鋳型にハマって何が面白いのかという批判精神は今も昔も変わっていない。

よく言われるのが「日本人はジェネラリストは生み出せるがスペシャリストは生み出せない国である」という言葉だったが、それはなぜかというと家庭・学校・会社などあらゆる組織の形態が「没個性の大量生産工場」だからである
親からはとにかく「いい子に育つこと」を小さい頃から求められ、学校に入れば「テストで好成績を叩き出し運動もできること=文武両道」を求められ、社会人になれば今度は「数字をとにかく出せ」と利益を求められるものだ。
そう、日本の学校教育はとにかく昔からまるで工場のベルトコンベヤーのように「一人の十歩よりみんなの一歩=没個性・無個性」であることを求めてきたから、それは会社に入ったら今度は「利益」と言う形に変わる。
近年、何やら「会社は学校じゃねえんだよ!」のドラマが流行ったが、私に言わせれば求められるものが「テストの点数」から「利益」に変わっただけで、結局数字で可視化できるもので成果が求められることは変わっていない

それで毎日親・先生からはその意味を考える暇もなく「勉強しなさい!」と言われるばかりで学ぶ喜びや楽しさを感じる暇もなく勉強させられ、それが最終的には受験戦争という歪んだ競争に子供達を向かわせることになる。
そうして大学に行き卒業して社会に出ると今度は「営業で成績を出せ!」と上司にガミガミ叱られながらの毎日であり、結果が出なかったら「お前たちの頑張りが足らなかった」としか言わない歪んだ精神論・根性論の押し付け。
これらはいずれも戦後の歪んだ日本教育の「仕組み」「構造」が生み出した問題であって、決して個人の意思でどうにかなるものではないし、ましてや周囲の圧力から生じた問題を「自己対話」で解決しろというのは無理がある
確かに自己対話は重要であるが、いわゆる学校にいるような「落ちこぼれ」「落ちこぼし」「できない子」と評されるような人たちはその自己対話すら無理だから自己肯定感が低いということをこの記事を書いた人は失念しているだろう

しかも更なる問題があって、野村克也が提唱する「無視・称賛・非難」の教育理論はあくまで野村克也の独自研究によって提唱されたものであって、言うなればイチロー選手の振り子打法や大谷選手の二刀流と同じで決して一般化できるものではない
そもそも野村克也自体が京都の貧しい家庭に育ったという幼少期があり、その頃に味わった苦痛から「なんとか母親に楽をさせてやりたい」との思いと本人自身の反骨精神が形となって現れたものであって、要するに「強者」の理屈なのである。
こういう一部の天才が作る強者の理論と言うのはあくまでもその人自身にしか再現のできないものだし、何より下層の段階にいる人たちを「無視」して奮起を促すと言うのは完全に「強者」のステージに登って来れる人しか相手にしていないのだ
だから野村克也の教育理論を継承する人材が現れないのも正にそこにあって、ノムさん理論で育った選手たちは元々一流になれる資質を十二分に持ち合わせたダイヤの原石の人たちが磨かれて一流に育っていったというタイプばかりである。

そしてそれは選手においても同じで、例えばイチローのレーザービームや振り子打法がなぜ後世にそれを再現可能な人が現れないのかというと、その技自体はあくまでイチロー選手が編み出した独自の戦術だからであり、他に応用の効くものではないからだ
そう、野村克也も鈴木イチローもあくまで「強者」「天才」と呼ばれる上位陣の人たちであって、言うなれば徹底した「野球のプロ」だからできたことであって、その背景をきちんと押さえずして安易に自己肯定感の問題を解決するカンフル剤にすべきではない
私に対する反論の記事を書いた人が見落としているのは正にここであり、「強者」「天才」が作り上げる理論が国民性と言うべきレベルで起こっている深刻な問題を解決できるわけではない
「天才」と呼ばれる人たちが振り翳す理論は手前味噌の部分がとても大きく、いわゆる「凡人」「落ちこぼれ」と言われるような下層と呼ぶべきところにいる人たちのことを無意識に切り捨ててしまっている。

そしてここまで分解して気づくのはZ世代じゃなくとも自己対話をしてない人なんて同じようにいることだし、承認欲求お化けなんてについても同様だ。必要なのは自分に常に声掛けすること。ここnoteに書くことも自己整理には向いているということだ。

だからこの結論に関しても「個人」に関して言えばそうだし、いわゆる「ダイヤの原石」と呼ばれる人たちは自分への声掛け=自己対話で解決できるのだろうが、世の中そうじゃない人たちの方が圧倒的に多いのである。
大事なのは国全体で自己肯定感に寄らずに勉強や仕事に取り組み成果を出す仕組みを作ること、そして「凡人」「弱者」「落ちこぼれ」と呼ばれる層にいる人たちを救い上げるための仕組みを作ることが大事だ。
そう、自己肯定感という「気持ち」「感情」の問題自体はあくまでも主観的なものでしかないのだが、大事なのはそこではなく「仕組み」「構造」で解決できるようにすることである。
人間の気持ちというのはいい加減なものであり、そんな部分を問題にしてしまうとどこまで行っても無謀な感情論にしかならず、行き着くところは「お前らの熱意が足らなかったからだ」という痛い精神論に帰着してしまう。

私から察するに、おそらくこの文章を書いている人も他の記事なども見ている感じでは「天才」「強者」と呼ばれる人たちに近い感覚で生きているように思える。
自己肯定感という深刻な気持ちの問題を自己評価の仕方や自己対話で自発的に解決できるのはあくまでごく一部の強者・天才と呼ばれる人たちだけだろう。
ほとんどの人はまず自己対話に至る発想すら出て来ないだろうし、その発端にあるのは結局のところ国の教育の仕組み・構造にあるということになるのではないか。
欧米諸国が日本人よりも自己肯定感の高い人が多いと言われるのも、結局のところは教育の仕組み・構造が国レベルできちんとできているからである。

その問題が近年になって露見し社会問題にまで発展しているのは、裏を返せばいかに戦後の日本教育がとんでもないことをしてきたかの証左だろう。
そんな根深い問題を個人のレベルで解決できるわけがないのであって、仕組みから生じた問題は仕組みを抜本的に変えることでしか解決できないのだ。

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