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「勉強しなさい!」と言う親・教師の言うことなぞ一切聞く必要なし!誰かに強制された人生の何が面白いのか?

最近同年代の教師をしている人たちから「どうすれば子ども達の言うことを聞かせられるのか?」という類の質問が来ることが増えている。
私は「組織」「集団」「学校」と呼ばれるものが反吐が出るほど嫌いな子だったし、それは今でも変わってない。
ただ、流石にお金を払ってそれなりに「勉強」なんてものをさせてもらっている以上何もしないわけにはいかないから、自分が好きな科目の勉強だけはそれなりにやっていたと思う。
逆に言えばそうじゃない科目に関しては例え教師に尻を叩かれてもうんともすんとも言わない子だったので、国語・英語以外の科目の先生にはめちゃくちゃ迷惑をかけて困らせた。

また、最近私が書いた記事に対して「では教えてください。何をすれば戦隊ファンを名乗る資格があるのですか?クロサキさんのイエスマンになれと?」とコメントする人までいた。
このコメントを見た時、私は心底ゾッとしたと同時に日本人の多くがこうだから没個性を跋扈させたような人たちばかりで面白みがないのだと思う。
そもそも「資格がある」とか「イエスマン」とかって単語が口を突いて出てくること自体、いかに日本の学校教育が偏っていて歪んでいるかを物語っている。
私はもうかれこれ10年以上物書きの端くれとして言いたいことは好き放題言わせてもらっているが、「俺についてこい」「俺の信者になれ」と言ったことは一度もない

むしろ私はそうやって表面しか見ずに叩くようなやつ、あるいは逆に奥底では舐め腐っている癖に善人の面して近づいてくる腰巾着みたいな奴が大嫌いである
私が今こうしてありがたいことにそれなりのいいね数やコメントをもらったりフォロワーが200人超えを果たしたりしているのも、あくまで自分が好きなことを発信し続けた結果でしかない。
だから嫌いなら別にフォローを外してもらっても構わないし見たくなければ見なくてもいい、世間体や周囲の目なんて気にして批判されること、傷つくことを恐れていたらこんなことできるわけがないだろう。
そういうわけで、私はその相談をしてくる教師たちに対して必ず言う言葉があって、それは「子供には何も期待するな」である。

これはよく言われることだが、学校の先生になるような人というのは学生時代に親や先生の言うことを素直に聞いて成績も上位だった優秀な子である場合が多い。
もちろん中には「学校嫌いだったけど教師になった」という人もいるだろうが、そもそも学生時代に学校にいい思いをしなかった子が学校の先生なんて好き好んでなるものだろうか?
そういう優等生の人たちは自分たちが学生時代に勉強ができて学業成績が優秀だったことから勉強できない子の気持ちがわからず寄り添えなくて、それで困って「言うことを聞かない」と泣きついてくる
どうやら学校教師になる人は「生徒は無条件に教師である自分の言うことを聞いてくれる」という性善説に基づくバイアスのようなものがあるらしい、子供なんてそんな簡単な生き物じゃないというのに。

私自身も学生時代に教職の授業を取って英語教師の道も一度は考えたことがあるのだが、ある時に親友Fから言われたのが「君は教師にならない方がいい。できない子の気持ちがわからないから」だった。
それを言われた時に核心を突かれた気がして全く反論できなかったのだが、性格的にも能力的にも「誰かを教え導く」ということが向かない性分であると今思えば当たっている。
それに私は学校の先生に指摘されずとも、本当に自分にとって必要なものは自分で勉強してきたし、逆に自分に必要じゃないと思った科目に関しては基礎基本さえ取れればそれ以上は勉強しようとしなかった。
両親からも友達からも「本当、お前変わってるよな」と言われたのだが、そういう私自身の経験を含めても尚思うのは「勉強しなさい!」と言う親・教師の言うことなぞ一切聞く必要はないということである。

こう書くと「勉強をサボることを正当化するな!」とでも怒りの反論が来そうだがそうではなく、外部の者に強制されて勉強したって長い目で見たと時に上手くはいかないと私は思うのだ。
実際に同級生も含めて、そういう大人の出してくる強制力・圧にやられて腐っていく同級生・先輩・後輩を私は何人も見てきたし、実際小中時代に優秀だった子が高校以降で伸び悩むのもそこである。
勉強というのは本来子供達自身でそこに楽しさを見出してのめり込むように勉強するという自発性があり、「知る喜び」「学ぶ楽しさ」があった上でこそ成り立つものであろう。
それを考えもせずに上から目線で頭ごなしに「とにかく勉強しなさい!」「テストで100点を取れ!」は私に言わせれば伸びようとする子供たちの才能の目を摘み取ってしまってるように思えてならない。

親や先生が過剰に「勉強しなさい!」と押し付ける理由の背景にあるものは大抵2つに分かれていて、1つは上述したように親・先生自身が学生時代に優秀だった成功体験を子供達に押し付けているパターン。
そしてもう1つがこれとは逆に自分が学生時代にできなかったコンプレックスによる反動形成で、「自分ができなかったから子供たちにはこうあって欲しい」と言う歪んだ理想の押し付けである。
どちらのパターンにしても、その子供たちの自由意志を無視して自分たちの考え方をただ押し付けて道具扱いしている点は共通していて、これが巷にいう「毒親」「ダメ教師」の本質ではなかろうか。
要するに成功体験から「この子達も同じようにできるはず」という思い込み、またその反対の失敗体験から「この子達にはできようになって欲しい」という思い込みがいかに子供たちを縛り付けていることか。

私はそういう意味では比較的幸せな方だったかもしれない、親にも先生にも勉強を強制されたことないし、仮に強制されたとしても自分が奥底から興味がなければ勉強しないスタイルを比較的通させてもらってはいたから。
昔から元々跳ねっ返りが強いこともあったのか、たとえ先輩・先生・親が言うことだろうが自分が納得できなかったら首を縦に振らなかったし、先生たちの言うことも「本当にそうか?」と疑ってかかるタイプだった。
それに勉強のやり方だっておおよそ他人がやらないような方法で成績を伸ばしていたから、「どうやったらそんなに得意になれるの?教えて」と言われたが私は決して教えなかったのもそういう理由である。
そもそも自ら学ぼうという向上心や意欲がなかったら伸びないし、自分で創意工夫することすらしないで人に勉強のやり方だけ聞く時点で他人を当てにしているのが明明白白だ

以前にも記事にして書いたことだが、「どうすれば子供達の言うことを聞かせられるのか?」という質問に対しては結局のところ「その科目を専門家と言われるレベルまで極めろ」としか言いようがない。
それはつまり「How to teach(教え方)以前にWhat to teach(教えるべきこと)をきちんと把握しておけ」ということなのだが、ここ最近は特に「お前教師のくせにそんなことも知らないのか」と思う質問が沢山来る。
「Canとbe able toの違いを教えてください」とか、そんなのは大学で言語学・英文法の基礎をちゃんと勉強していればわかることなのに、そこすら掴んでなくて英語を教えているのだからちゃんちゃら可笑しくてヘソで茶が湧く。
そんなレベルの奴らが英語教師を名乗ってやっているわけだし、国語教師にしたってきちんと辞書を読んで言葉の意味を熟知した上で指導している先生が少なからずいるのだから、生徒だけの問題というわけでもあるまい。

子供たちが教師に対して憧れを抱くか舐めてかかるかの違いはどこにあるのかというとこれも2種類あって、1つは徹底して人間力・人柄が優れている坂本金八先生のような熱血教師であろう。
もう1つが『ドラゴン桜』に出てくる個性派の教師たちのように徹底した「専門家」であり、教え方も含めてその分野では有無を言わさないスペシャリストと言えるレベルまで勉強している「教鞭のプロ」だ。
どちらにしたって自分がまず勉強すべきことを勉強していて、子供たちから尊敬の眼差しを集めることができなければ、子供達の言うことを聞かせることなどできやしまい。
子供というのは大人が思っている以上に狡賢く強かであり、わずかでも親・教師が隙を見せたら舐めてかかってくるわけであって、それを黙らせるには徹底した人間力か圧倒的な才能のどちらかである。

そしてそれだけ突き抜けた先生であれば、わざわざ「勉強しなさい!」と口酸っぱくして言わなくても自然に勉強するものであって、子供は親の背中を見て育つように学校では教師の背中を見て育つものだ。
だから、教師も自分がやるべきことをきちんとやっていれば生徒は自然と言うことを聞いてくれるようになるし、逆に子供たちも親や先生が口を出さなくても興味を自然と持てば勉強だってやるようになる。
大事なのは「期待しないこと」であり、期待なんかしなければ無駄なことで神経をすり減らすことも無くなるし、自分がきちんと姿勢で見せれば子供たちは自然とついてくるものだ。
私が学校大嫌いだった理由はそういう自主的にしっかり学ぶ環境を作ろうとせずに、最初から「一人の十歩よりみんなの一歩」みたいな集団主義で囲う環境・風潮が大嫌いだったのである。

もちろん私だって学生時代に尊敬できる教師の1人や2人はいたが、「学校」という「没個性の大量生産工場」自体はいつなくなってもいいものだと思っていた。
そんなくだらないものに縛られるような生き方なんかして、大人の思う「理想」とやらの鋳型にハマって何が面白いのかという批判精神は今も昔も変わっていない。
誰かに強制されることも、そして私は自分自身が誰かにとっての偶像崇拝の対象にされることも昔から嫌いだったし、だからこそ他者と群れない、交わらない生き方をしてきた。
それは今後も変わることはないだろうし、だから学校の先生になんぞ間違ってもならないしなりたくない、誰かに期待なんかしない分誰かから期待されることも全く望んでいない。

「期待」とは結局のところ「依存」と同じである。

それがここ最近特に強く思うことであり、だから私の中には「誰かのため」という概念が昔からなく、自分が好きなことや必要なことをやってたらついてくる人が勝手に現れただけだと思う。


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