見出し画像

『メトロポリス』『スピオーネ』感想〜ドイツ表現主義は正直重いが、ラストに向けてのシュツルム・ウント・ドランク(疾風怒濤)が素晴らしい名作〜

本日はサイレント期の名匠フリッツ・ラング監督の名作『メトロポリス』『スピオーネ』を見たので、感想・批評をば。
映画史の中で極めて重要ではありながら見る機会がなかったフリッツ・ラングの代表作を今見とかねばという使命感のようなものがこみ上げてきた。
評価は以下の通り。

『メトロポリス』評価:A(名作)100点中80点
『スピオーネ』評価:A(名作)100点中85点

既に語られ尽くした感がある古典的名作なので何を語ればいいかはわからないので、逆に何の予備知識も入れることなく見てみた。
この当時の映画としてはかなりの長尺で予算も贅沢に使っているのだが、自分に合うかというと正直好みはそこまで合わない
ドイツ表現主義の独特の重さが私にはイマイチであり、迫力は凄いのだが私が求める映画の波長とのズレを感じてしまった。
しかし、それでも画面が備えている迫力は筆舌に尽くし難いものがあり、淀川長治や蓮實重彦が本作をオススメしていた理由も何となくわかる。

扱っているテーマが割と思想的・政治的な社会派の作品なので思想性が強く出過ぎやしないかと危惧したが、十分エンタメとして見れる範囲に収まっていた。
今の基準で見ても流石にSFの表現は現在の作品群の方が洗練されているものの、1枚1枚が本当に絵画のように綺麗で、後半で見せるシュツルム・ウント・ドランク(疾風怒濤)がとにかく素晴らしい
肌に合わなかった部分も含めて改めて私が素直に感じ取った本作の魅力について語らせていただこう。

抒情的なメロドラマは苦手

まず苦手というか肌に合わない点からいうと、まず『メトロポリス』『スピオーネ』共に最終的に男女のメロドラマに話が帰着してしまうところがあるのはどうも苦手である。
特に『メトロポリス』は扱っている階級が当時のヒエラルキーに基づく差別問題を扱っているだけに、どうにもサスペンスの手段として用いられる男女の愛の表現がクサくて重い
私は年齢と性格のせいもあるのかもしれないが、段々と恋愛ものが苦手になってきていて、フリッツ・ラングはキスなり抱擁なりを惜しげも無く見せつけるので私はどうも苦手だ。
まあこれは主観的な問題にはなってしまうのだが、この点はまだキートンや小津・北野辺りのように男女の愛をあまり露骨に描かずサラッと流す作家の方が私の肌には合っている

特に『メトロポリス』は金持ちの坊ちゃんと労働者階級の娘が恋に落ちるという「シンデレラ」のパターンなので、身の丈に合わない幻想的な恋は受け付けない
『スピオーネ』に至ってはそれこそ女スパイが逆に敵側の男に惚れ込んでしまうという、これまた安直な作劇なので話としてはぶっちゃけ富野監督と大差ない三流レベルだ。
まあそもそも日本でかつてあった昼ドラもそうなのだが、こういう男女の色恋を戦いの中で表現するというのは古今東西用いられる表現の1つだが、あくまで刺身のつまであって欲しい。
あまりくどくどと描きすぎるとかえって安っぽくなってしまうし、こすり倒しになってしまうとこういうのは紋切型というかワンパターンに陥ってしまうからである。

とりあえずフリッツ・ラングが描く女は演じている女優を見ればわかるが、典型的な「可愛い顔した性格ブス」であることが作品を通してわかったことだ。
特にメトロポリスでアンドロイドが扮するマリアの偽者は同じ女優が演じているとはいえ清々しい悪女としての完成度が高く、もしかすると富野監督はここから悪女の描写をオマージュしたのかと思うほど。
『スピオーネ』の女スパイにしたってわざわざ惚れた男のことなんか放っておけばいいものを、必死になって探すあたりはどこかシュールギャグのようにも見えて、かえって笑えてくる。
何でもそうだが表現がオーバーになって度を越すと悲劇を通り越して喜劇に見えてしまうというのはこういうことをいうのかと良くも悪くも納得した。

顔と台詞の演技がうるさい

メロドラマのクサさに加えてもう1つのドイツ表現主義の問題は顔と台詞の演技がとにかくうるさいことであり、アップで映ると本当にこちらを指すような感じで睨みつけてくる。
よくニコニコでは「こっち見んな」という言葉が使われているのだが、世が世ならリアルタイムでこれを見た人は正にそんなことを思ったに違いない。
しかも「メトロポリス」に至っては顔がうるさいだけではなく、まるで妖怪目目連みたいに目のアップが何回も示されるので、不気味というかほとんどホラーである。
あえてそういうテイストにしていることはわかるのだが、あんだけ仰々しくこちらを睨まれると下手なホラー映画よりもよっぽど怖い。

脱線にはなるが、「スーパーマリオRPG」の「森のキノコにご用心」に歌詞をつけたMAD動画「VIP先生」で例のアンドロイドのダンスとそれを睨む知識階級のアップのシーンはその典型だ。
最初に見たとき気持ち悪かったが、全体の流れを把握した上で見ると尚気持ち悪さが倍増するため、二重の意味でこのシーンは私にとってトラウマというか衝撃であった
まあ映画は決して安心や納得といったプラスの感情だけではなく困惑や衝撃といったマイナスの感情も引き起こすものなので、別にそういうシーンはあってもいいだろう。
しかし、MADで見たときに感じた気持ち悪さが全体を理解することでより気持ち悪くなるという例は「メトロポリス」以外になかなかない気がする。

『スピオーネ』も同じことであり、ボスとして出てくる男の顔の不気味さといったら、私が今まで見てきた映画の中でも間違いなくトップクラスだ。
ドイツ表現主義おそるべしと思ったわけだが、このオーバーすぎるくらいに内面を絵で表象する点においては今現在でも通用する迫力はある。
だがうるさいことはうるさいし、記憶には残るのだが私にとっては演技が過剰なように思えるので、今見るには少し厳しいかもしれない。
軽い表現が求められる今の時代にあってはこういうオーバー気味な表現は逆に重いと見なされてしまうのではなかろうか。

フリッツ・ラングは「手」と「目」の作家

とはいえ、やはりスピッツ・ラングはきちんと画面で語れる作家であることに間違いはなく、この人は「手」と「目」の作家なのだと思った。
まず「目」に関しては上でも触れているように、「メトロポリス」では目のショットが視聴者の印象に強烈に残っており、これは後世のあらゆる作家が参考にした表現だ。
特に「ブレードランナー」や手塚治虫辺りはこの「目」の表現に対するこだわりが感じられ、間違いなく本作の影響を受けているといえる。
「スピオーネ」でも感情に訴える表現の時は目力で勝負していて、そういう「目」で勝負できる役者をきちんと選んでいたのだろう。


そしてもう1つは「手」なのだが、これは『メトロポリス』『スピオーネ』の双方で「目」以上に私の記憶に深く残った。
特に「スピオーネ」では右手に銃、左手にタバコを持つショットがあり、これだけでどんな心理状態かを一発で効果的に伝えている
また、衝突事故で列車の瓦礫に埋もれてしまった男が手を伸ばすアップの描写も印象的であり、とにかく「手」が美しい
「メトロポリス」のラストでも労働者代表と金持ち代表が握手をするときもやはり「手」で勝負をしていた

上では「顔の演技がうるさい」だの「メロドラマが安っぽい」だのと批判したが、それを覆すような目と手が印象的なのである。
最近だとどうしても台詞や物語といった「ドラマ」で勝負する作品が多くなっている中で、本作のように身体のアップで勝負する作家はかえって新鮮である。
これがあるからこそ、リズム感などで今の時代に合わない重さがあっても、今見ても衝撃足りうる目と手のアップが私の感性を刺激してくるのだ。
こういうところにこそ正に映画の映画たる所以があり、「画面」で効果的に最大限を語れるのが「ショット」の魅力だなと再確認した。

キートンと並ぶ「走る群衆と個人」の描写の素晴らしさ

そしてこれはフリッツ・ラングの作家性かもしれないが、ラストに向けてのシュツルム・ウント・ドランク(疾風怒濤)が素晴らしい
具体的にはサスペンスが一気にカタルシスとして表象される後半の展開なのだが、「走る群衆と個人」の描写はキートンに匹敵する
キートンがドライなスラップスティックとして表現しているのに対して、こちらは表現主義として悲劇的かつ深刻に表現しているだろう。
しかも決してアップではなく俯瞰によって引きで撮ることによって、逆に臨場感というか緊張感を強調することに成功している。

特に『メトロポリス』のマリアが労働者たちに追いかけられるところや水没する街から子供たちを逃すところのサスペンスは画面の運動として素晴らしい。
どう考えても子供達は逃げ切れるとわかっているのに、否応無しに手に汗を握る見せ方になっていて、この迫力は時代や国を超えて現在にも訴える壮観な迫力がある。
しかも決して早すぎず遅すぎずのスピード感とテンポで表現しているからこそ逆に緊張感が高まって、これこそが正に画面のサスペンスなのだなと思えてしまう。
今だとこういうのは「画面」ではなく「物語」「心理」としてのサスペンスになってしまい、無駄なアップやパン・ティルトを用いがちだが、ラングはそんな下品なことをしない。

また群衆が大量に押し寄せて走る様も今だとCGでそういうのを表現してしまいそうだが、やはりこういう迫力のある画こそ実写で表現して欲しいのである。
何故ならば生身の人間にしか出せない味や迫力がそこにはあるからであり、CGを使ってしまうと途端に嘘くさく陳腐なもに成り下がってしまう。
まあその分衝突も多いので事故や生傷なんかも多そうではあるが、そういうリスクを厭わずにこれだけ撮りきる素晴らしさは見事である。
「スピオーネ」にしてもガステロからの脱出までのシーンは本当に独特の緊張感があって、今のとこ私はキートンと並ぶサイレント期の「走る群衆と個人」の表現だと思う。

「画面で語る」ことを教えてくれる希有な作家

フリッツ・ラングは今回が初めてなのだが、どちらも正に「画面で語る」ことをこちらに教えてくれる稀有な映画作家であると思った。
SFの表現や話法といった脚本の解像度・技術面は確かに今日の方が洗練されているので、そこはどうしても勝てない側面がある。
また、表現主義であるが故にとてもクサい過剰な芝居が目立つことは目立つが、それを覆す画面の迫力がとんでもない
思想的な部分はあるにしても、フリッツ・ラングは間違いなく「映像」の人であることが本作を見て私なりに感じたことである。

物語映画が批評や考察のアプローチになることが多い昨今、フリッツ・ラングを「物語」「思想」の側面から語る向きもあるだろう。
しかし、やはり私は彼こそ正に「映像」「画面の運動」で勝負する人だと思ったし、合わない部分はあっても彼にしか表現できない「ショット」がある
現代人がついつい置き去りにしてしまいがちな「画面で語る」ことの気持ち良さをストレートに教えてくれるのがこの二作が名作たる所以だ。
映画好きなら好き嫌いは脇に置いて是非とも刮目して見るべき作品であり、これらを見ずして映画は語れないというのも納得されうる次第である。

この記事が参加している募集

おすすめ名作映画

映画感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?