「堕落論」と今

青空文庫というアプリがある。
なんとなくインストールしていたので、適当に読み散らかしていた。
大体、冒頭の何行かだけ読んで、ピンと来なかったら次、みたいな、著者に大変失礼な読み方をしたりする。
文字通り、読み散らかしていた。

本は、基本的には読まないタチだ。
ただ、稀にすごい集中力で読んだりする。
そういう本は大抵、長い間疑問に思っていることへのヒントともなろうものが予見される内容だったり、漠然と抱いている、多分こうなんだよなあという解を明快に言語化していたりする。

だよね!僕は間違ってなかった!

てな具合に。
まあ要するに自信が欲しいわけだ。誰かにお前は間違ってないぞと言って欲しいわけだ。


この青空文庫にて、
単純によく名前を聞くからという理由でなんとなく読み進めると
だよね!やっぱそうなんだ!
とあっという間に最後まで読んでしまった
坂口安吾の堕落論もそのうちの一つだった。

今更かい、て思ったあなたはきっと本が好きな部類の人間なんだろう。


読書感想文なんてのはいつぶりだろうか。

好きな文を引用してみる。
「終戦後、我々はあらゆる自由を許されたが、人はあらゆる自由を許された時、自らの不可解な限定と、その不自由さに気づくだろう。」

不可解な限定と、その不自由さ

この言葉が引っかかり考えた。

僕は、これは今でいう、企業広告や、CM、そこから生まれる一般論や,
皆の思う「普通」などが、「不可解な限定」に当てはまるのじゃないかと思った。

そしてここでいう、「その不自由さ」は、そんなCMや広告、皆が言っていることに従順になっている自分が見えた時に、いや、本当にそうか、私はこう思うけどな、でもそう思うことをやろうとすると完全にマイノリティであり、孤立する可能性を含む「不自由さ」なのかと思った。

「あの偉大な破壊の下では、運命はあったが堕落はなかった。無心であったが充満していた。」


この文が一番腑に落ちたし、気に入った。

ここでいう偉大な破壊とは、戦争での爆撃のことだ。
著者はその爆撃を体験した後に、この作品を書いている。


僕たちは、そりゃもう平和な時代を生きさせてもらっている。
生きてきたし、今も平和だ。

戦争で何もかも破壊された後、
先人が積み上げてきてくれたこの平和な世の中で、
当たり前のように、やりたいこともできて、飯も食えて、金も稼げて、家族も仲がいい。のに、心は何かを求めている。ずっと。
思うに、それは多分、温かく、希望に満ちていて、もっと仲間意識が凝縮したような団結感のようなもの。

今のこんな平和、いっそ壊れてしまった方が、そういったものに近づけるんじゃないだろうか。
漠然とずっと思っていたことだった。
そうなれば家族との連帯感もいっそう深まることだろうし、目の前にいる赤の他人のことももっと親近感ある人間に思えるし、思ってくれるんじゃなかろうか。友達のことももっと気にかけるようになるんじゃなかろうか。

もちろん、別に勝手にそうすればいい話にも思えるが、皆それぞれがそれぞれの「不可解な限定」をもとに生きているため、表面的にはそういうことをしていたとしても深いところの「絆」などは感じにくいと、僕は思ってしまうのだ。

「絆」なんてのは、もっと単純で明白なもののはずなのにね。
そう、もっと無心でいられたら、充ち足りる気がする。

「たとえ爆弾の絶えざる恐怖があるにしても、考えることがない限り、人は常に気楽であり、ただ惚れ惚れと見惚れておけばいいのだから。」

ああ、できることなら考えたくないね。
だから一心に仕事に没頭する人の気持ちはわかる気がする。だが僕はできない。
でもたまにしてみる。
考えなくていいんだものね。疲れも忘れるぐらい、目に見える成果を上げれば、ある程度の満足感得られるもんね。
でも僕も本当はわかってる、生活費のためだけにこんな楽しくもないことしてなんになるんだなんて思ってる。「不自由さ」を感じる。
そこを「そういうもんだ」と思えず、仕事中も考えるから苦しいのだ。


この不自由さから逃れるためにはどうしたらいいんだろう。

「人間は生き、人間は堕ちる。そのこと以外の中に人間を救う便利な近道はない。」

生きている限り、人間は堕ちる。
生きるほどに強欲になっていく、
というか、欲を満たすために人間は生きている。
欲を満たすこと以外に人間を救う便利な近道はない。
と僕なりに言い換えてもいいだろうか。


「人間は可憐で、脆弱であり、それ故愚かなものであるが、堕ちぬくためには弱すぎる。」


著者は最後に

「堕ちる道を堕ちきることによって、自分を発見し、救わなければならない。政治による救いなどは上皮だけの愚かにもつかない物である。」

と言っている。
そう、そうだよね!

でもこれが難しい。できない。
できている人間はやはりかっこいいと思う。

「人間は可憐で、脆弱であり、それ故愚かなものであるが、堕ちぬくためには弱すぎる。」と著者がいう通り、

他人に迷惑をかけそうで怖いからとか、なんだか煌びやかな世界にまだ憧れがあるからとか、みんなから見放されたくないから、友達を失いたくないから、まだ普通の人に見られたいからとかで
やはり難しいし堕ちれない。

でもこの不自由な輪廻から逃れるにはやはり堕ちきらないとダメだよね!

「堕ちきる」というのはなんだかネガティブな響きだが違う。
これは、
たとえ既存の社会から逸脱しようとも、自分の程度を見据え、その程度に集中して生きるということ。
身の程を弁えるということとも取れるし、
自分の運命を見つけ、その運命に従順に生きるということ。
だとも僕は思う。

どんな人がいるだろうと考えると、中嶋らもがパッと思い浮かんだが、イチローとかホリエモンとかも並べちゃっても良いんじゃないかな。
彼らは堕ちきってると言っていいと僕は思っちゃう。怒られる?
もちろん著者自身の坂口安吾も堕ちきっていたのだろう。
というか、いわゆる文豪と名のつく人たちは皆堕ちきっている印象がある。

皆堕ちるべき道を見つけて、その運命に、無心に、生きているように見える。


最後に、
ここ3年ほどのコロナやらで、実は前述の「偉大な破壊」は静かに行われたと取っても良いと思ってもいる。
爆撃こそされなかったものの、可視化ははっきりできないものの、今もその破壊は進んでいるんじゃないかと。

ある意味ではこれは希望だと思う。

「あの偉大な破壊の下では、運命はあったが堕落はなかった。無心であったが充満していた。」

運命を見据える時、来てるんじゃない。
そして、その運命を見据えたならば、その運命と共に堕ちる覚悟を今こそ持つべきなんじゃない。
堕落しきった平和は、崩壊していき、
今再び僕たちは、皆が同じ目線で、共にこれからを作る所まで来ている気がする。

と、ポジティブに捉えている。

それは個人間の孤独な戦いな気もするが、皆が皆孤独なら、それは孤独じゃないものね。

まだ見ぬ同志よ!いつか堕落しきった先で会えることを!






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