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高校生のための人権入門(16) 高齢者の人権について

はじめに

今回は、高齢者の人権ということで、認知症の高齢者に対する虐待のことを中心にお話します。これが、現在、高齢者の人権に関係した最も身近な問題だと思うからです。

認知症がもたらすもの

まず、認知症とはどういうものかを簡単にお話します。認知症とは、脳の細胞の変化などによって、記憶の障害や認知機能の低下が見られる症状を言います。中心的な症状としては、記憶の障害、特に短期記憶の喪失(ついさっきのことを忘れてしまう等)や、判断力の低下(見たものや聞こえたことを、「○○だ」と理解したり、判断したりする力などが衰える)、さらに時間や場所がわからなくなったり(今はいつなのか、自分がどこにいるのかわからなくなる等)、言葉が理解できなくなったりすることが挙げられます。

その上、高齢になると、聴力が落ちたり、視力が落ちて視野が狭くなったりすることが認知症に重なるため、日常生活の中で、部屋に誰かが入ってきてもまったく気づかず、目の前に来てからようやく気づいて、びっくりして怒り出したりするというようなことが起きます。また、何かに気をとられていると、他のことには注意を向ける余裕がまったくなくなってしまうため、すぐ後ろから声をかけられてもなかなか気がつきません。また、短期の記憶(ついさっき起きたことについての記憶)ほど、消えやすくなるため、30分前に食事をしたことや、1、2分前に自分が知ったこともすべて忘れてしまうということが起きます。その結果、何度も何度も「今、何時だっけ。」と、ひんぱんに繰り返し聞いてくるようなことが起きてきます。最初は、「9時ですよ。」と答えていた家族も、数分後にまた同じことを聞かれ、「だから、さっき9時って言いましたよ。」と、いらいらしながら答え、さらにまた聞かれると、さすがに腹が立って、「いいかげんにしてよ。」と怒鳴ってしまうというようなことも起きてきます。さらに認知症が深まると、もう仕事をやめてから10年以上も経つのに、突然、「仕事に行ってくる。」と言い出して出かけようとしたりすることが起きてきます。本人に「あなたは、今、何歳ですか。」聞くと、むっとして、「40歳だ。」と答えるようなことも起きてきます。

毎日の介護の中で

毎日の介護の中では、こんなことも起きます。家族が、汚れている下半身を拭こうとして、ちゃんと「ここ(下半身)を拭くから、脱ごうね。」と声をかけて、お湯などの準備をしてから、いざパジャマのズボンを脱がそうとすると、高齢者がどうしても言うことを聞かないことがあります。「だって、きれいにしないと(困るじゃない)。」と言って、パジャマの腰の紐をゆるめて脱がそうとすると、「何するんだ。」と突き飛ばされたりすることがあります。そういうことが起きると介護する側は、「ああ、とうとうこんなこともわからなくなったんだ。もうどうしようもないね。でも、汚れたままにしておくわけにもいかないし、どうしよう。」と途方に暮れたり、場合によっては、介護する方がカッとなって、「いいかげんにしろ。きれいにしてあげようと思ってやってるのに。ふざけるな」と怒鳴ったり、叩いたりすることも起きてきます。

このような高齢者への暴言や暴力においても、それがどのようにして起きてくるかを考えると、パワーハラスメントの時に述べた人権侵害の構造が、ほぼそのまま当てはまることがわかります。この場合、「強い立場」の人は介護する人です。「弱い立場」の人は介護される人です。強い立場の人は、「こんなに一生懸命、この人のためにやっているのに、なんでわかってくれないんだろう。」と思い、そのいたたまれない思い(みじめさ、不安、焦り)が、ある時点で怒りとなって爆発します。一方、介護される認知症の高齢者は、先ほど述べた通り、視野が狭くなったり、別のことに気を取られたりして、介護者が部屋に入って来たことにさえ気づいていないこともあります。さらに、介護者がいろいろ説明しても、結局何も理解できていなかったり、一応、理解して、「わかった」と言っても、介護者が体を拭く準備をしているうちに、他のことに気をとられて、何のために自分が立っているのか忘れてしまったりもします。そのような状態で、パジャマのズボンを急に脱がされそうになれば、認知症の高齢者は、「突然、誰かが自分のそばに来て、無理やり自分のズボンを脱がそうとした」という思うことになります。当然、本人はパニックになり、「何をするんだ。やめろ。」と叫びます。それでも、介護者がいろいろ言いながらそれを続けようとするなら、恐怖心でパニックになった高齢者が大声を上げたり、暴れたりしてしまうのはある意味で、当たり前のことなのです。こう考えてみると、介護の場面でも、強い立場の人(介護者)と弱い立場の人(認知症の高齢者)がいて、強い立場の人が「これが正しい。これが相手のためになることだ。」と思ってやっていることが、実は全然相手に伝わっていないということが起きています。逆に、介護する方も、高齢者が何もわからないまま無理やり体にさわられ、裸にされるというひどい恐怖や不安を味わっていることに、まったく気づいていません。ここでも、「気持ちや思いのズレ、断絶」が起きているのです。

それでは認知症の高齢者と介護者の間に生まれるこの「気持ちや思いのズレ、断絶」を、少しでも埋める方法はないのでしょうか。実はあるのです。それがこれからお話しするユマニチュードです。ユマニチュードは時々、新聞やテレビでも紹介されていますので、ご存じの方も多いかもしれません。

ユマニチュードについて

ユマニチュード(Humanitude)は、フランス語の造語で、フランスのイヴ・ジネストさんとロゼット・マレスコティさんが考えた新しい「介護の考え方と方法」のことです。ユマニチュードという言葉は、「人間らしさ」を意味するフランス語の造語です。(『「ユマニチュード」という革命 なぜ、このケアで認知症高齢者と心が通うのか』誠文堂新光社、イヴ・ジネスト著、ロゼット・マレスコティ著、本田美和子日本語監修))イヴ・ジネストさんは、「ユマニチュードは、哲学と技法から成り立っている」と言っています。テレビなどではユマニチュードの技法(介護の方法)の面だけが取り上げられることが多いのですが、ユマニチュードの哲学の側面こそが、今、お話している高齢者の人権の問題と深く結びついていますので、まず、哲学としての側面からお話しします。

ユマニチュードの哲学の中心は、わたしが考えるには、「人間にとって一番大切なことはなにか」ということです。人間にとって一番大切なことは、「誰かから必要とされ、『あなたは人間です』『あなたのことが大事だ』と尊重されること」(前掲書)だとユマニチュードでは考えます。つまり「人に人として尊重されること」です。そして、ユマニチュードは、「人と人との絆を取り戻すこと」でそれを実現しようとするのです。

「自律のための依存」を肯定する

ユマニチュードの考え方で、わたしが画期的だと感じるのは、ユマニチュードが「自律のための依存」を肯定している点です。ふつう、われわれは、「人が病気になったり、介護が必要になったりすれば、その人の自律や自由はなくなっていくのが当然だ。その人の命を守るためには、多少、自律や自由を奪うことになっても仕方がない」と考えます。こういうはっきりした言い方をすると、そんなことはないと思われるかもしれません。しかし、介護する人の多くが感じるであろう「面倒をみているんだから、わがまま言わないで。」とか、「こんなに迷惑かけているんだから、こちらの言うことも聞けよ。」というような思いは、介護が必要になったりすれば、その人の自律や自由は多少はなくなっても仕方がないという考えと同じなのです。つまり、われわれは、「介護や看護を受けること(人に依存すること、人に助けてもらうこと)」と、その人の「自律や自由」は両立しないと考えているのです。しかし、この誰でも納得しそうな「面倒をみているんだから、わがまま言わないで」という理屈は、「できないこと」がどんどん増えていく認知症の高齢者には通じません。なぜなら、「できないこと」がどんどん増えていく認知症の高齢者にとっては、「自分を守ること」だけが、唯一の課題になるからです。高齢者が怒りっぽくなったり、強引にいつまでも自分の要求ばかり繰り返したりするのは、できないことばかりの「弱い自分」に対する「不安」(このまま放っておくと、大変な目にあう)に、いつもつきまとわれているからです。自分のことで手いっぱいの人は、自分の要求を他人がどう感じるかまではとても考えている余裕はありません。高齢者は、自分の要求をなんとか通さなければ、自分がどうなるかわからないという不安にかられてています。そのために、周りからは理解できないほど執拗に自分の要求を通そうとします。

ユマニチュードの技法(4つの柱と5つのステップ)

ユマニチュードでは、今お話しした「人に人として尊重されること」、「自律のための依存」を重視するする考え方に基づいて、介護を、4つの柱(「見る」「話す」「触れる」「立つ」)と5つのステップ(「出会いの準備」「ケアの準備」「知覚の連結」「感情の固定」「再会の約束」)に基づいて行います。これらすべての技法は、相手と自分の「失われてしまった人間としてのつながり」を回復するためのものです。

具体的なユマニチュードの実践として、介護の始まりの場面を取り上げてみましょう。ユマニチュードを身につけた介護者は認知症の高齢者の部屋に入る時は、必ず大きめに3度ノックをします。日本家屋であっても必ずふすまや障子を3回たたきます。これは、中にいる高齢者に人が来たことに気づいてもらうためです。ノックをしたら、3秒待ちます。返事があれば、中に入っていきます。返事がない場合は、同じことをもう2回繰り返します。これが「出会いの準備」です。3回繰り返しても返事がない場合は、中に入っていきます。

中に入ったら、必ず相手の顔が向いている方から近づきます。高齢者の視野が狭くなっていることを考え、できるだけ視野の中心に入るようにします。ノックで返事がなかった場合は、相手の近くにあるベッドボードや椅子の肘掛けをたたくことによって、相手に自分が来たことを伝えます。その後、相手の瞳に自分の顔が映るくらいまで顔を近づけて、視線を水平に合わせて、じっと見つめ、相手が自分に気づいて目が合ったらすぐに笑顔とともに話しかけます。ケアの話は最初はしないで、相手に会えてうれしいという思いを語ります。

認知症の人の中には、こちらが何を話していてもわかっていないような感じがする人もいますが、低めの声で、穏やかにやさしく、できるだけ前向きの言葉(「お元気そうですね」、「笑顔がすてきですね」等)で、とぎれなく話します。それと同時に、手のひらを使って相手の背中、肩、腕などをやさしくなで、相手の目を見つめながら、話しかけるようにします。これが、「ケアの準備」と「知覚(視覚、聴覚、触覚)の連結」です。ちょうど親が赤ちゃんの目を見つめ、ずっと話しかけながら、その体をなでたり、さすったりするような活動になります。

ケアの間に、このような活動を続けることによって、相手に「あなたは人間です。」、「あなたはわたしにとって大切な人です。」、「あなたと一緒にいて、わたしはとてもうれしいです。」というメッセージを伝え続け、それによって、相手と自分との間の「人間としての絆」を確かなものにしていくのが、ユマニチュードです。

「人と人のつながり」を取り戻すことの大切さ

ユマニチュードは、それまで医療や介護の中で失われていた「人と人のつながり」を、このような実践の中で取り戻していきます。自分の存在を認められ、人としてのつながりを取り戻した認知症の高齢者は、それまで失っていたと思われるさまざまな力をどんどん取り戻していきます。その具体的な様子については、ユマニチュードの本やユマニチュードを紹介した動画(YouTubeなどで観ることができます)などを参照してください。

数年間、寝たきりになっていて、看護師とのやり取りもむずかしくなり、看護師たちが3人がかりで体を拭こうとすると怒鳴りつけたりする高齢者の患者が、イブ・ジネットさんと出会ってたった数分で楽しく言葉をかわし、イブさんが帰る時は笑って手を振って見送るようなことが起きます。人は、ユマニチュードを「魔法の認知症ケア」と呼びますが、イブさん自身は、「ユマニチュードは魔法でもなんでもありません。技法ですから誰でも身につけられます」と言っています。

それまでの介護や看護の中で、介護者と認知症の高齢者の間にできてしまった「気持ちや思いのズレ、断絶」を、ユマニチュードではこのようにして埋めていくのです。

困った時は、助けを呼ぼう

もちろん、介護は理屈通りにはいきません。ユマニチュードの通りに実践できればいいわけですが、実際には、なかなかその通りにはいきません。そして、認知症の高齢者を怒鳴ってしまって、傷つくのは高齢者だけではありません。ある意味では、高齢者以上に介護者の方が、みじめな思いを深く抱え込むことになります。そんな時は、自分(たち)だけで解決しようとせずに、ぜひケアマネジャーさんやヘルパーさんに、相談してみてください。何かが「できないこと」で、相手を責めたり、自分を責めたりする必要はありません。介護者がまいってしまったら、そこですべては終わってしまうのですから。

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