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高校生のための人権入門(24) 「正しさ」のぶつかり合いから抜け出すこと(その3)

はじめに

前回は、パワーハラスメントが起きている時に、加害者と被害者の「心の溝(気持ちや思いのズレや断絶)」が、どのようにして深まっていくか、それが生む「誤解」がどのような働きをしているのかを見ました。今回は、今までの2回の話を踏まえて、「心の溝」を生まないためにはどうしたらよいか、「心の溝」と「誤解」の悪循環を進行させないためには、どうしたらよいのかを考えてみたいと思います。

「心の溝」を生んでいるもの

わたしは、ここ20年ほどの間、日本では、社会や経済のきびしさ、ひどさが、「人と人のつながり」を壊し、人はどんどん孤立してきているように感じています。そして、新型コロナウイルスの感染拡大が、そのような「冷たい社会」(困っても誰も助けてくれない社会)を、さらに冷たく、厳しいものにしています。(第11回、「女性の人権について」参照)

この20年間に、どんなことが日本で起きたでしょうか。職場に「成果主義」が導入され、日本全体に「新自由主義」と「グローバリズム」がセットになって導入されました。「役に立たないもの、ムダなものは切り捨てよう。そうしなければ、世界に置いていかれる。」という考え方が、徹底的に進められました。その結果、職場をはじめとして、社会のすみずみにまで、「できないやつはダメ」、「人のことはいいから、自分の(すべき)ことだけを考えろ」という考えが広がりました。なにかトラブルが起きれば、「これは、誰のせいだ」という犯人探し、責任追及です。そして、誰かが何かをしてトラブルに巻き込まれれば、「あんなことするからいけないんだ。あんなところに行くからいけないんだ」という自己責任論が世の中をおおいました。職場では、「実績を出せ、エビデンスを出せ。努力はしたんですなんて、言い訳は聞きたくない。とにかく数字を出せ」と言うのが、当然のことと考えられています。こんな世の中で、今や日本には、「人がいい思いをするのが許せない」という人がどんどん増えています。生活保護利用者への非難・攻撃、年金や介護を受けているお年寄りなどに対する非難・攻撃はもちろん、「なんでわたしより仕事ができない人が、わたしと同じ給料をもらっているんだ。おかしい」と思っている人が、日本中に溢れ返っています。

これほど「心の溝」が生まれやすい社会はないかもしれません。そして、このような日本社会の変化は、圧倒的な力をもってわれわれを押し流していきます。思わず、わたしはこんなイメージを持ってしまいます。ひとりひとりがバラバラにされて、大きな河の流れの中のあちこちに立たされています。河の流れはどんどん水かさを増して、かかとから膝の方に上がってきます。その流れに押し流されないようにそこに立っているだけでやっとの状態です。しかも、水量や流れが速くなるのにともなって、小石までいっしょに流れてきて、わたしたちの脚に当たるのです。少しずつ嫌でもわたしたちは下流へと押し流されていきます。

そんな社会の中で、わたしはどうすればいいのだろうか

あちこちで生まれてくる「心の溝」を本当に解決するためには、たぶん、国や社会自体が変わらなければなりません。しかし、国や社会自体は容易に変えることができるものではありません。むしろ、現実の国や社会はますますひどい状況になっていきます。そこで、当面の策として、わたしたちが今できることは、今、自分が所属している小さな集団を、その中の人間関係を少しでも変えることだと思います。そのために、まずわたし自身の考えを変える必要があります。具体的には、「何が正しいかではなく、自分のできることはなにか、自分が所属する集団の中で、自分の持っている力を、どう使うかを考えるようにすること」だとわたしは思っています。

自分の持っている力を、今、どう使うかは、大きく分ければ二つになると思います。ひとつは、A「自分の『正しさ』を貫くために使う」であり、ふたつめは、B「目の前の人と、ともに笑顔でいられることのために使う」の二つです。わたしは、特に行き詰まった時、Bを選ぶことが、自分の今、所属している集団を救うことになると考えています。なぜかと言うと、わたしたちは、ふだんは家庭においても、職場においても、A「自分の持っている力を自分の『正しさ』を貫くために使う」で生きています。しかし、そのAのやり方ではどうにもならない状態、行き詰まった状態が、必ずと言っていいほど、どこかで起きてきます。例を挙げれば、家庭における「子どもの不登校」や、職場における「パワーハラスメント」がそうです。そんな時に、Aのやり方で押しとおそうとしても、どうしようもなくなるのです。

行きづまった時、どちらを選択するか

親は、子どもには毎日、元気に学校へ行ってほしいと思います。親として当然の気持ちです。そのために親は自分の持っている力を惜しみなく使います。ですから、学校に行けなくなった子どもに、「わたしができることは何でもするから、明日は学校に行ってほしい。がんばって学校に行ったら、心からほめてあげよう。認めてあげよう。」と思うのは親として当然の気持ちです。しかし、そのような気持ちを子どもにぶつけても、不登校問題は解決しません。むしろ、そうすれば事態はますますどうしようもないものになり、子どもの苦しみも親の苦しみも深まるばかりです。不登校になっている子どもは、多くの場合、心の中で、学校に行けない自分を嫌ったり、情けないと思ったり、憎んだりしています。しかし、実際にどうしても学校に行けない自分がここにいるのです。そんな不登校の子どもたちが、親に言ってほしい言葉は、おそらく、「学校は行きたければ行けばいいし、行きたくなければ行かなくていい。あなたはあなたのままでいいんだよ。あなたが笑顔でそこにいるだけで、わたしはうれしい。それがわたしにとって一番大事なことだから。」という言葉でしょう。そして、そう言ってあげることは、そのつもりになれば、親にならできるのです。そう言ってもらえば、子どもは本当に安心します。そして、しばらく力を充電した後、いつか必ず動き出します。それが、親の望むような方向への動きになるかどうかはわかりませんせんが、必ず自分の力で動こうとします。

また、職場においても、何か問題を起こした弱い立場の人に、強い立場の人が、「なにやってるんだ。こういうことをしてはいけないと、くり返しあなたには言ってありますよね。なのに、なんですか」と相手を責め立て、それによってその人に反省させて、その人を「正しく」変えようとするのはAの力の使い方です。そして、それが思いどおりにいかなかった瞬間に、怒りが生まれればそれはパワーハラスメントにつながっていきます。そんな時に、「この人のためにわたしが今、できることはなにか。」と思えないでしょうか。起きたことは起きたことなのですから、もう取り返しはつきません。今、一番重要なことは、その人を反省させるより、まずこのミスのダメージを最小限に抑えることです。たとえば、迷惑をかけた相手への謝罪にいっしょに行ってあげるとか、他部署とすばやく連絡、協力することが、結果的に、職場のダメージを最小限に抑えることになります。行き詰まった時、AではなくBの力の使い方をすることが、自分の所属する集団(家族や職場等)を救うことになるのです。

相手と自分が笑顔でいられるために、今、自分のできることをする

ここで重要なことは、Aの力の使い方をするよりも、Bの力の使い方をすることの方がより「正しい」からそうするのではないということです。また、Bのようにした方がいいのだから、無理をしてもそうすべきだということではまったくないのです。もし、そう考えてしまったら、Aの力の使い方と、Bの力の使い方は同じこと(自分の信じる「正しさ」を貫くこと)になってしまいます。人には「やさしくしなければならない」、「思いやりを持たねばならない」、「多様性を認めなければならない」、「相手の人権はなにがあっても尊重しなければならない」という理由から、Bのようにするということではないのです。Bの力の使い方はそのような義務や「正しさ」や「ねばらなない」とは無関係です「相手と自分が笑顔でいられるために、今、自分のできることをする」ということであり、それ以上でもそれ以下でもありません

自分自身に対して、「わたしにできないことはいっぱいある。でも、できることもある。そのできることをすることが、誰かを笑顔にするはずだ。(自分の力をそう使おう。)」と考えたらいいのではないかと思います。そして、そう考えることは、その気になれば(つまり、自分の「正しさ」から抜け出せば)誰にでもできることです。自分の周りにいる人に対して、「(今は)できなくてもいい。笑顔でそこにいてくれることが、今は一番大事なことなんだ。」と考えられないかということです。そう考えることが、児童虐待やパワーハラスメントを防ぐことにつながるとわたしは思います。

「単純な事実」を自分と相手に認めること

思ったように生きられないつらさ」を、今、すべての人が味わっています。「誰もが、自分の思ったようには生きられないし、相手を自分の思ったようには生きさせられない」のです。この単純な事実を、自分と相手に認めなければ、自分が作り上げた泥沼(屈辱、みじめさ、怒り、憎しみの人間関係)からは逃れられません。このような「泥沼」が典型的に生まれるのは、親子関係だとわたしは思っています。(そんなこともあって、前回の最後に、親子の間の「心の溝」について書いてみました。)

どちらを選ぶかはあなたの「自由」です

A 自分が思い描いたように「正しく」生きる(生きさせる)こと(今できなければダメ、人に迷惑をかけるんじゃない)

B 生きていてうれしいとお互いに思えること(今はできなくてもいい、時には人に助けてもらっていい)

このどちらを選ぶかは、あなたの「自由」あり、あなたが決めることです。しかし、わたしは自分自身を含めて、行きづまった時こそ、Bを選ぶ勇気を持ちたいと思っています


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