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なぜ、神と悪魔が存在するのか 〜善悪の対立から自らを解き放つために〜

神は善で、善なる神がこの世界を創ったのなら、なぜ、悪が存在するのだろうか」と、だれでも一度は考えたことがあるのではないでしょうか。これはキリスト教にとっては、初期のころからの大問題で、パウロを始めとしてたくさんの人がさまざまな説明を考えてきました。しかし、誰もが納得できるような答えは今も出ていないと思います。また、たとえ宗教を信じていなくても、テレビや新聞をみれば、日本でも世界でもどう考えても許しがたいようなことが、次々に起きています。そんな時、神も仏もないのか、この世には正義というものがないのかと、つい思ってしまいます。今回は、前回の流れから「善と悪」や「神と悪魔」について、もう少し考えてみたいと思います。


「義務」に縛りつけられたわたしたち

わたしたちは、日々、「義務(こうしなければならない、こうでなければならない)」の世界に生きています。「義務」の根底には、道徳やしきたりや法律があります。常識をそこに加えてもいいかもしれません。そして、「義務(こうしなければならない、こうでなければならない)」に従うことが「善」で、それと真逆のことをすることが「悪」になります。例えば、「親は子どもをかわいがらなければならない」という強力な「義務(プレッシャー)」が社会にあり、それに従う親は「善い親」ということになり、それの逆(虐待等)を行う親は「悪い親」ということになります。そして、「子どもはかわいがらなければならない」という「義務(プレッシャー)」の根底には、親は子どもに対して必ず愛情を持つ。だから、子どもをかわいいと思うし、子どもをかわいがるのが当然(当たり前)なんだという固定観念があります

「性善説」と「性悪説」は、どちらも原因と結果を取り違えている

前回も書きましたが、「性善説」とは、単純に言ってしまえば、人間の心の奥には必ず「善の端緒(たとえば、良心)」がある。だから、人間は「善い行為」をするのだとする考えです。しかし、論理的には逆の説明もまったく同じように可能です。人の心の奥には「悪の端緒(たとえば、欲望)」がある。だから、「悪い行為」をするのだ。これが、「性悪説」になります。人権侵害をなくそうとする活動に対して、「人間には差別する心があるんだから、いくらそんなことをしてもムダだ。差別はなくならない」と言う人たちがいます。この人たちの考え方は、ご本人は嫌がるでしょうが、「性悪説」の方に含まれるでしょう。しかし、一見すると対立しているように見える「性善説」と「性悪説」ですが、どちらも原因と結果を取り違えている点で、同じように間違っています

親の子への思いは、「愛情」に限定できない

先ほどの親子の話に戻れば、本当は、「親」とはこういうものだ、こうであってほしいというものが、まず人間の集団、社会の中にあって、その原因(説明、根拠)として後から考えられたのが、そのように親に行動させる「子への愛情」というものなのです。もちろん、親は子に「そうしないではいられない思い」(孟子の言う「人に忍びざるの心」や、わたしの考える「責任」)を、必ず持ちます。しかし、それは単純に「愛情」と呼んでしまっていいものではありません。子への「そうしないではいられない思い」は、実際には「愛情」として表れることもあれば、「憎悪」として表れることもあり、場合によっては「拒否」として表れることもあるからです。このことは、誰でも経験的にはわかっていることです。親は時として、愛情だけではなく、子に憎しみを持つこともあれば、拒否の思いを持つこともあるからです。それは、人間としてきわめて自然なことなのですが、まじめで倫理性の高い親ほど、自分は親として失格なのだろうかとか、なぜ自分は子どもを充分に愛せないのだろうかとか、悩んでしまいます。さらに人によっては、自分がそのような気持ちを持ったことがあることまで、かたくなに否定しようとします。

人が人に対して持つ思いは、本来、善でも悪でもない

親の子への思い(「そうしないではいられない思い」)は、そういう意味で、本来、善でも悪でもありません。(もちろんこれは、善でも悪でもあるといっても同じことですが。)話を一般的な話に戻せば、人は人に対して「そうしないではいられない思い」を、さまざまに持ちます。それは、本来、善でも悪でもない(同時に、善でも悪でもある)ものです。そういうさまざまな「思い」から行われた「行為」の中から、周りの人々や社会は、自分たちにとって都合のよいものを「善」とし、それを自分たちの集団に属する人の「義務(当たり前)」にしていきます。そして、やがてそれが、その集団、社会の道徳やしきたりや法律になっていきます。

「かたち」を持った「善」は、悪を生み出す

こう考えてくれば、なぜ、この世には善と悪が存在するのか、なぜ、神と悪魔が存在するのかが少しわかってきます。本来、人の「そうしないではいられない思い」、「そうしないではいられない行為」は、善でも悪でもないのに、集団や社会が「善」というものを目に見えるような「かたち」にしてしまうと、その「かたち」に合わない「思い」や「行為」は「不善」になり、それに反する「かたち」をした「思い」や「行為」は「悪」になるのです。同じことが、宗教についても言えます。強力な「善なる神」を信じる宗教は、必然的にそれと同じくらい強力な「悪なる神(悪魔)」を想定せざるをえなくなるのです。それは、ちょうど物に光を当てれば、必然的に影ができるようなものです。強い光を当てれば当てるほど、物はくっきりとした黒い影を生みます。

善なる神とは、「こうであるべきだ」から生まれたもの

善なる神の「善」とは、人間が集団・社会の変化・発展の長い歴史の中で生み出し、社会の基盤としてきたルール、道徳、倫理、法から生まれたものです。わたしの言い方で言えば、それは「こうであるべきだ、こうでなければならない」という「義務」のことになります。しかし、「こうであるべきだ、こうでなければならない」と、いくらわたしや社会が思っても、実際には、A:「そうなる場合」とB:「そうならない場合」があります。Aならば、善が実現したことになりますが、Bならば、善が実現しなかったこと(不善)になります。さらに、Aの真逆のことが実現することもあります。子どもは保護されなければならないのに、虐待を受けているような場合です。このような反A:「Aの真逆のことが実現する場合」が「悪」ということになります。

一神教は必然的に悪魔を生み出す

これらのことから考えられることは、宗教の場合、神がより強い力を持ち、強力な「善」になればなるほど、より強い力を持つ、強力な悪(悪魔)という存在が、それとセットになって必然的に生まれてくるということです。そういう意味では、(善なる神の)一神教は必然的に悪魔を生み出すのです。逆に、神(神々)が、あまり人間の行動の「善/悪」(倫理性)にとんちゃくしない存在であれば、結果として神に対立するような悪魔も生まれてこないことになります。ちょうど、薄暗い光の中では、はっきりとした影も生まれないようなものです。例として正しいかどうかはあやしいですが、わたしの理解では、日本の神道では、人間の「罪」は「穢(けが)れ」と同じものなので、清め祓う(きよめはらう)ことで消えます。それは、キリスト教(カトリック)のような「神の赦し(ゆるし)」を必要としません。(神道の知識が乏しいので、間違っていたらお許しください。)

善悪二信教と善の一神教

一神教は必然的に悪魔を生み出すと書きましたが、今までの論を踏まえて考えれば、最初からこの世界を、「強力な善い神と強力な悪い神の戦い」として見る見方(善悪二元論(善悪二神教))も当然ありえます。たとえば、ゾロアスター教などがそれにあたるかもしれません。ゾロアスター教の影響を受けて生まれたとされるユダヤ教、キリスト教、イスラーム教はいわば、善い神のみの一神教ですが、その宗教を信じる人が多い国(イスラエル、アメリカ、イラン等)は、自分にとって社会的、政治的、現実的に不都合な相手を、必然的に「神の敵」=「悪(悪魔)」として攻撃します。そうしないと、自分の(信じる神の)絶対的な「正しさ」を守れないのです。

強力な「善(義務)」が、人権侵害を生む

同じことが、われわれの職場や家庭や隣近所でも起きます。「こうであるべきだ、こうでなければならない」という「善(義務)」を、あまりに強力に設定してしまうと、そうしない(できない)人を、「悪」としないではいられなくなるのです。「職場のルールを守らない部下」、「親の言うことを聞かない子」、「ゴミ出しのルールを守らない外国人」を、「悪」として非難、攻撃し、そうする(できる)ように相手を変えない限り、自分の信じる「善(義務)」の権威や、自分の存在そのものが脅かされるような気持ちになるのです。これがさまざまな人権侵害(パワーハラスメント、児童虐待、外国人差別等)の原因になっているとわたしはずっと思ってきました。以前、わたしは「人権侵害をなくす(減らす)ためには、自分の『正しさ』を括弧に入れる必要がある」と書いたのは、このような意味です。(くわしくは、「人権に関わる「ぶつかり合い」をどう解決するか(その1)」などをご覧ください。)


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