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「あなたはおかしい」のぶつかり合い

これまで、わたしはこのnoteに掲載した「高校生のための人権入門」などで、人権に関わるトラブルや争いというものは、双方の「正しさ(の主張)」のぶつかり合いだと説明してきました。しかし今回は、人権に関わるトラブルを少し違った観点から見てみたいと思います。今までのような双方が互いに「わたしは正しい」と自分の正当性を主張しているという観点ではなく、「あなたはおかしい」と互いに相手を非難しているのが人権問題なのだという観点から見てみたいと思うのです。一見すると自分が「正しい」と主張することも、相手が「おかしい」と非難することも、まったく同じことのように思えます。しかし、実際に起きていることに沿って考えるためには、後者の観点に立った方がよいという気がするのです。

思考実験をお願いします

まず、前回(「目の前の人に人権尊重を要求できるか」)で扱った【思考実験①】を使って、このことを考えてみます。前回の【思考実験①】はこのようなものでした。

【思考実験①】車いすでしか移動できないAさんが、いつものように車いすで町に買い物に出かけました。しかし、自分が入ろうとした店の前に高さ10cmほどの段差があり、自分の力ではその段差が乗り越えられないため、後ろから歩いて来た二人の男性に、「さあ、わたしの車いすを持ち上げて、段差の上にのせなさい」と言ったらどうでしょうか。「わたしには行きたいところに行く権利がある。あなたたち二人には、やろうと思えばすぐに車いすごとわたしを簡単に持ち上げるだけの力がある。だから、あなたたちはわたしの人権を尊重して、わたしの車いすを持ち上げなければならない」と主張したら二人の男性はどう思うでしょうか。(あなたが、そう言われたらどう思うか考えてみてください。)

「障害の社会モデル」から考える

現在、障害というものは、個々の人の中にあるものではなく、社会の中にあるものだと考えられています。つまり、社会に存在するさまざまな障壁(バリアー)が、一定の特性を持った人に生きづらさを与えているという考え方です。障害についてのこのような考え方を「障害の社会モデル」と呼びます。(くわしくは「高校生のための人権入門(14) 障害者の人権について」をご覧ください)上記の思考実験において、車いす利用者のAさんにとっては、店の前の10cmほどの段差が、「社会的障壁(バリアー)」ということになります。そもそもこんな段差がなければ、車いすで買い物に来てもなんの問題も起きませんし、たとえ段差があっても、そこにゆるやかなスロープがつけられていれば、何の不都合もないのです。

しかし、このような段差が、実際にスロープもなしに存在している以上、現実の場面においては、Aさんは誰かに助けてもらわなければ、店に入ることができません。そこで、Aさんは後ろから歩いて来た二人の男性に、「わたしの車いすを持ち上げて、段差の上にのせなさい」と言ったわけです。

Aさんから見れば

前回も書いたように、実際にはこのようなことは起きません。多くの場合、Aさんは、段差で進めなくなったら、「すみません、助けてもらえませんか」と店の人か周りの人にお願いして、車いすを持ち上げてもらって店に入るからです。しかし、もし、Aさんが「なぜ、わたしはわざわざ周りの人に『すみません』とあやまらなければならないんだろう。だって、こんな社会的バリアーである段差が平気でそのままにされているのは、この店やこの町や日本の社会の方が間違っているからではないのだろうか」と思ったらどうでしょうか。そういう場合は、Aさんが腹を立てて店の人に携帯で電話し、「この段差はなんですか。全然、バリア・フリーやとか合理的配慮がなされていませんね。おかしいです。すぐに店から出てきてわたしを持ち上げなさい」と言うことが絶対にないとは言えません。

同じように、「この段差はなんですか。こんな障壁を放っておく今の日本の社会はおかしい。この社会の一員である、ほら、そこにいるあなた、責任を感じてわたしを持ち上げなさい」と言うことも、絶対にありえないことではないでしょう。あなたがその店の店員で、もし電話でそう言われたら、また、通りかかって車いす利用者からそんなことを言われたら、どう感じますか。

こんなことは実際には起きないけれど

くり返しますが、実際には、今書いたようなことはふつうは起きません。しかし、人権に関わるほとんどのトラブルは、今、書いたようなことをその内側にはらんで起きています。そのことについてここでいちいち書くことはしませんが、パワーハラスメントを始めとして、身の回りで起きた人権侵害の解決に一度でも関わったことのある方ならば、今、わたしが申し上げたことはよくおわかりだと思います。

ひとりで店を切り盛りしている店員からすれば

Aさんにとっては、このような段差を平気で作ってしまう、また段差にスロープもつけずに放置している店の人や社会が間違っているのです。そしてそれは、たしかにそのとおりです。しかし、もし、たったひとりで客の対応をしている店員が、突然、店の電話が鳴って、困ったなあと思って電話に出たら、「この店の前の段差はなんですか。おかしいでしょう。わたしはこの店に入ろうと思っている客なんだから、すぐに出てきてわたしを持ち上げなさい」と言われたら、どう思うでしょうか。「いいかげんにしろよ。今、わたしはたったひとりでお客さんの対応をしているんだから、お客さんやレジを放っておいてここを離れるわけにはいかないんだ。前もって連絡もせずに車いすで来たのは自分なんだから、自分でなんとかしろよ」と思うかもしれません。

どちらの思いももっともなのに

Aさんの主張ももっともですし、たった1人でお客さんの相手をしている店員が「いいかげんにしてよ」と思ってしまうのも、もっともです。この店員だって、その時、店に3人くらい店員がいて、余裕をもってお客さんの様子や店の内外の様子を見ていれば、きっと対応は違ったでしょう。もしかしたら、Aさんから電話がかかってくる前に店のウィンドウ越しにAさんの困っている様子を見て、自分から店の外に出て、Aさんに「どうしましたか。なにかお手伝いしますか」と声をかけていたかもしれません。

Aさんにしても、この店員にしても、どちらも、わがままで勝手なことを言ったり、腹を立てたりしているわけではないのです。そういう意味では、どちらの発言や思いももっともであり、「正しい」のです。しかし、実際にこのようなことが起きて、実際に双方が顔をあわせれば、いら立ちを感じ、相手に対して「あなたはおかしい」と感じ、相手を憎んだり、文句を言ったり、どなりつけたりすることも起きてしまうかもしれません。

「純粋な第三者」として、人権問題を考える

ここでわたしが、ふつうなら起こりそうもないような単純化(極端化)した出来事を、もし仮に起きたらとして考えてみる【思考実験】を皆さんにしていただいたのは、皆さんに言わば「純粋な第三者」として、人権問題を考えてみてほしかったからです。「純粋な第三者」としてものごとを見れば、おそらくこの世のほとんどのことは、人権問題のトラブルを含めて、それなりに「もっとも」なことなのだろうと思います。しかし、現実に対立や争いが始まってしまえば、当事者(この場合のAさんや店員)から見れば、相手の言っていることややっていることは、何から何まで、どう考えても明らかに「おかしい」ことになってしまうのです。

「純粋な第三者」になることはむずかしい

ただ、このような【思考実験】であっても、Aさんの言っていること(の方)が「正しい」と思う人もいます。そういう人は、当然、店員の行動や思っていることは「間違っている」、「おかしい」と感じることになります。逆に、店員の思っていることが「正しい」と考える人もいます。そういう人は、当然、Aさんは「おかしい」と感じることになります。一応、第三者であっても、このようにどちらかに共感する場合は、そういう人は本当の(純粋な)第三者ではないのだろうと思います。そのような第三者は、もちろん現実的な利害はないけれど、【思考実験】であっても、自分をどちらかの立場に当てはめて考え、感じているからそう思うのです。今回、わたしが、あえてふつうは起こらないケース(単純化、極端化したケース)を、【思考実験】として皆さんに考えていただいたのは、できるだけ「純粋な第三者」として、人権問題を考えてみていただきたかったからです。

対立を解消する可能性を持っている第三者は

ただ、このような、どちらかの考えが「もっとも」で、それに対立する相手の考えは「おかしい」と考える第三者が、人権問題のトラブルで和解のために双方の間に入っても、この対立は解消しません。いや、解消するどころかもっと対立の根深いものにしてしまうでしょう。もし、対立を解消する可能性を持っている第三者がいるとすれば、それは、どちらの思いや考え、行動も「もっともだ」と思える人です


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