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高校生のための人権入門(27) なぜ「正しさ」から抜け出す必要があるのか(補足2)

はじめに

前々回で、「高校生のための人権入門」の本編は終わりましたが、25回ほど人権について書いてくる中で、心に引っかかっていることが二つほどあります。それについて2回ほど「補足』という形で書いて全体を終わりにしたいと思います。今回は、補足の2回目で、「なぜ『正しさ』から抜け出す必要があるのか」です。

「正しさ(正義)」が人権問題の理解を困難にしている

第25回「人権と生きることの意味」の中でも引用したヴァルター・ベンヤミンは、別の文章の中でこう書いています。

「ぼくらが経験しているものごと(注:ファシズム)が二〇世紀でも『まだ』可能なのか、といったおどろきは、なんら哲学的では〈ない〉。それは認識の発端となるおどろきではない。」(『歴史哲学テーゼ』VIII、晶文社、118〜119ページ、野村修 訳)

この文章を書いた後、ベンヤミンはナチスの手から逃れようとして、ピレネー山脈において死を迎えます。

ベンヤミンの言葉は難解で、彼の言葉をどう理解するかは、さまざまな考え方があります。ただ、わたしはこの部分を、ずっと昔から、「今になっても、こんな『不正』、つまり『あってはならないこと(これを「正しさ」Aとします)』がまだ行われているのだ」というような驚きや怒りは、「正しい(これを正しさ」Bとします)認識」の発端にはならないというふうに理解してきました。もちろん、ここでの、Aの「正しさ」とBの「正しさ」は、日本語では同じ「正しさ」になっていますが、その内容は別ものです。Aの「正しさ」は、道徳的な、善悪の「正しさ」であり、Bの「正しさ」は、ものごとをとらえ、理解する上での「正しさ」です。わたしがこの「高校生のための人権入門」でくり返し、「正しさ」から抜け出すという言い方で表してきたのは、もちろんAの「正しさ」の方です。(違いをあきらかにするために、これ以降は、Aの「正しさ」は、「正義」という言い方にしたいと思います。)

ベンヤミンの言葉からわたしが思い浮かべることを、人権問題に引きつけてもっとわかりやすく書けば、「現実に起きている人権問題に、正義感から生まれる『怒り』をいくら感じても、それは人権問題の正しい認識にも解決にもつながらない」ということになります。

どうすれば人権侵害は減らせるか

この「高校生のための人権入門」を読まれて、「なんで、間違ったことをしている人(加害者)を弁護するようなことを書くんだ」という怒りや、「人権侵害の被害者に、人権尊重の訴え(「加害者が間違っている」等)をするなとお前は言うのか」というような不快感を感じられた方も多かったのではないかと思います。あえてそういう批判を浴びることを予想しながらも、わたしが人権についてこのような書き方をしてきたのは、「どうすれば人権侵害は減らせるか」ということを、何よりもまず考えてきたからです「人権侵害は絶対に許されない。だから、反省して今すぐやめなさい」といくら加害者に言っても、人権侵害はなくなりません。その事実を認め、なぜそういうことが現に起きているのだろうかということから、考え始めなければ人権侵害を減らしていくことはできないと考えたからです。

このように書くと、「しかし、人権の尊重は、日本国憲法を始めとして、さまざまな法律(法令)で定められていることではないか」と思われる方も多いと思います。しかし、前回でも述べた通り、法律(法令)が現実に規制できている人権侵害は、ごくごく一部です。これが現実なのです。(前回「人権と法律(補足1)」もご覧ください。)そして、このことは、人権問題の解決に当たっている多くの方が、日々、実感していることだとわたしは思います。

ものごとを理解するために必要なこと

ものごとを理解する(「正しく」認識する)ために必要なことは、「何が起きているのか(問題になっていることは何か)」、「それはどのようにして起きているのか」ということを、正確に把握することだと思います。(第22回「「正しさ」のぶつかり合いから抜け出すこと(その1)」もご覧ください。)そこからしか、「どうするのがよいか」は出てこないと思います。だから、この25回の中でわたしは「何が起きているのか(問題になっていることは何なのか)」、「それはどのようにして起きているのか」ということについて、できる限り考えてきたつもりです。逆に、最初から価値判断(「正義感」、「こんなことが今も行われていていいいはずがない」、「許せない」等)を入れてしまうと、それは「ものごとを理解する(「正しく」認識する)」こととは、結果的にまったく反対の方向に進んでしまいます。それでは、解決からはどんどん遠ざかるばかりです。

そういうわけでわたしは、人権を論じる時に、できるだけ自分の論に「正義」を持ち込まないように心がけました。(実際には、学校におけるいじめなどを論じている時に、どうしても感情的になってしまう部分がありましたが、それはお許しください。)「正義」を持ち込むと、人権についての論が「感情論」や「たてまえ論」、「きれいごと」になってしまうからです。具体的な人権問題を論じる際には、常に、「どうであるか」と「どうであるべきか」をはっきり区別して考えていくことが大事だと思います。

おわりに

これまでわたしが書いてきたことが、人権侵害や差別をどのくらい「理解する(「正しく」認識する)」ことに役立ったかは、わかりません。また、第7回「同和問題(部落差別)について」にも書いたとおり、ここに書いたことは、「あくまで現時点のわたしはこう考えるということにすぎません」。それでも、わたしが書いてきたことが、皆さまが人権について考える上で、また、目の前で起きている人権侵害、自分が受けている人権侵害、自分が行っているかもしれない人権侵害について考える上で、少しでもお役に立てばと願っています。

第1回からここまで読んでいただけた方はまずいない(長すぎますよね)と思いますが、1回だけでも読んでいただけた方に心から感謝申し上げます。ありがとうございました

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