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目の前の人に人権尊重を要求できるか

人は、人として尊重される「権利」を持っています。それが人権です。人権のことを「幸せに生きる権利」と説明する人もいます。
それでは、そのような「権利」は、わたしの目の前にいる人に、自分の権利として要求できるものなのでしょうか。もちろん、要求すること自体は可能です。しかし、たとえ要求しても、それがかなえられることはあまりないのではないのかと、このごろ思うようになりました。そして、ここにアンケート調査などでは、人権尊重の意識が社会的に高まっているように見えても、実際に人権侵害が起きるとその解決がきわめてむずかしいままであることの、ひとつの大きな原因があると思うのです。

「わたしの車いすを持ち上げなさい」という要求

最初に、思考実験(実際にはそんなこと起きないとしても、仮にもしそんなことがあったらどうだろうと考えてみること)として、次のようなケースを考えてみようと思います。

【思考実験1】車いすでしか移動できないAさんが、いつものように車いすで町に買い物に出かけました。しかし、自分が入ろうとした店の前に高さ10cmほどの段差があり、自分の力ではその段差が乗り越えられないため、後ろから歩いて来た二人の男性に、「さあ、わたしの車いすを持ち上げて、段差の上にのせなさい」と言ったらどうでしょうか。「わたしには行きたいところに行く権利がある。あなたたち二人には、やろうと思えばすぐに車いすごとわたしを簡単に持ち上げるだけの力がある。だから、あなたたちはわたしの人権を尊重して、わたしの車いすを持ち上げなければならない」と主張したら二人の男性はどう思うでしょうか。(あなたが、そう言われたらどう思うか考えてみてください。)

もちろん、こんなことは実際には起きませんが、もしそんなことを言われたら、たぶん二人の男性は、多くの場合、当惑したり、カチンときたりするのではないかとわたしは思います。「そういう言い方はないだろう」とか、「何様のつもりだ」とか、「要求(命令)するんじゃなくて、お願いしろ」と怒り出すかもしれません。繰り返しますが、実際にはこのようなことは起きません。Aさんは、段差で進めなくなったら、「すみません、助けてもらえませんか」と周りの人にお願いしたり、困っているAさんを見た誰かが、「どうしましたか。手伝いますか」などと声をかけたりして、Aさんは店に入ることができるだろうと思うからです。しかし、もしそんなことが起きたらどうだろうかと頭の中で考えてみること(思考実験)を皆さんにしていただいたのは、今、日本のあちこちで実際に起きている人権侵害をめぐる問題(対立、トラブル)は、意外にこれと同じようなところから起きているように思えるからです。

なぜ、「正しい」要求が、はねつけられるのか

確かに、Aさんが言うように人は行きたいところに行く権利があります。話を人権全般にまで一気に広げてしまえば、誰もが人権を持ち、誰もが幸せに生きる権利を持っています。もちろん、このような権利は、基本的な人権として、日本国憲法にも明記されています(「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利」(第十三条より)等)。また、誰だって車いすの利用者が段差の前で困っていれば、誰か手伝ってあげた方がいいよなと思います。そういう意味では、Aさんの言っていることは、「正しい」のです。では、なぜ、内容だけをとらえれば「正しい」はずのAさんの主張が、現実の場面では、はねつけられてしまうのでしょうか。

問題は、そのような自分の権利(人権)を、Aさんが「あなたはこうすべきだ」と相手に要求した時、ほとんどの場合において、要求した側(Aさん)と相手(二人の男性)の間で共通の了解が成り立たたず、むしろ逆に両者の間に、一瞬で深い「心の溝(気持ちや思いの深い断絶)」ができてしまうことにあります。そして、この「心の溝」が、その後の根深い対立やトラブルにつながります。

今、職場や地域や日本において人権に関わる問題(パワーハラスメント、障害者の移動の自由、同性婚をどう考えるか等の問題)が起き、それについて人々の意見が真っ向から対立したりする場合、実はそこではこれとまったく同じような対立が起きていると思うのです。一方の側は、「人権の尊重をあなた方に要求する権利がわたし(たち)にはある」と主張し、もう一方の側は、「われわれにそんな要求をするのは、あなた(たち)のわがままだ、自分勝手だ、甘えだ、そんな権利の主張を認めたらこの職場・地域・社会が成り立たなくなる」などと批判します。先ほどの思考実験はそのような対立を見えやすくしたものです。

学校へ行かない権利を子どもに主張されたら

ここで、もうひとつ思考実験をしてみましょう。

【思考実験2】不登校になった子(Bさん)が、早く学校に行ってほしいと思っている親に向かって、「わたしはもう学校に行かない。子どもには不登校になる権利(学校に行かない権利(自由))があるはずだ」と主張したら、親はどう対応するでしょうか。(あなたがその子の親だったらどう思うでしょうか。)

多くの親は、困惑するとともに、「ふざけるな。そんな権利なんてない」と怒り出すかもしれません。「そうだね、学校に行かないのはあなたの権利(自由)だから、それを尊重します」とすぐに言える親はまずいないのではないでしょうか。

この主張も受け入れられることはない

もちろん、これもあくまで起きていないことについて、もしそんなことが起きたらどうだろうかと頭の中で考えてみたものです。実際に家庭でこんな会話が行われることはふつうありません。子どもの中にも、「学校に行かなければならない(なのに、行けない、親にも申し訳ない、だからつらい)」という思いは強くありますし、無理やり登校させることが、子どもを苦しめることになるということは親もわかっています。わたしとしては、子どもには学校に行く権利もあると同様に、学校に行かない権利もあると思っていますが、それはさておき、不登校になっている子どもが、学校に行かないことを自分の権利(自由)として、親に主張しても、それがすぐにスムースに受け入れられることはまずないだろうというのが、この思考実験の結果です。

人権尊重を要求された人が感じること

二つの思考実験からわかることは、実際に、「わたしの人権を尊重して、あなたはこういう行動をしなさい(するべきだ)」と自分の目の前にいる人に要求しても、そんな要求はまず通らないということです。仮に世の中の人たち全員が、「人権は尊重されるべきだ」と考えていても、そんな要求を目の前の人から突きつけられたら、「はい、そうですね。そうします」と答えてその通りに行動する人は、まずいないのではないかと思います。むしろ、多くの人は、「それは要求することではなくて、お願いすることでしょう」とか、「あなたは自分の都合しか考えていない。こちら(まわり)の気持ちや都合をなにも考えてないよね」と思うのではないでしょうか。

一般論としては「本当はそうであった方がよい(そうであってもよい)」と思える権利(車いすを持ち上げてもらう権利、つらい時は学校に行かない権利等)であっても、それを実際に自分の目の前にいる人に「当然のこと」として要求された場合、要求された側(思考実験の「二人の男性」や「親」)が、その要求を、「確かにそうだ、そのとおりだ」と認めないのはなぜでしょうか。たぶんそれは、要求している本人はそんなことはまったく思っていなくても、要求されている人には、そのような要求(主張)が、「わたしは(あなたたちと違って)特別なんだから、やさしくするのが当然だ、思いやりを持って特別に扱うのが当たり前だ」と言っているように感じられてしまうからではないでしょうか。

人権尊重は、普遍的な正しさになっていない

現在、相手の人権を尊重するとは、相手に「思いやりや、やさしさ」を持つということではないという意見が主流になってきました。わたし自身もその意見に賛成ですから、そのような変化はとてもよいことだと思います。同様に、人権が尊重されなければならないのは、相手がかわいそうだったり、気の毒だったりするからではないという意見もそのとおりだと思います。ただ、そういう意見を述べる人が、「人権が尊重されなければならないのは、人権が、その人の持つ『権利(rights)』だからだ。権利は要求するものなのだ」と述べるのを聞くと、その主張には半分、疑問を抱きます。言っていること自体は正しいのですが、実際の場面で(たとえば、パワーハラスメントの被害者が)「わたしの人権は尊重されなければならない、だから、あなたは今までの自分の言動を反省して、変えなさい」と目の前の相手(加害者)に主張して、相手が「なるほど、確かにそのとおりだ」と思うでしょうか。そんなことはまず起きません。加害者は加害者で、「わたしのしたことは正しい、おかしいのはあなたの方だ」と思い込んでいるからです。実際の場面においては、わたしにとって「正しいこと」が、相手には「正しいこと」として通らないところに、人権問題解決の本質的な困難があるのです。(くわしくは、「高校生のための人権入門(4)人権侵害の基本的構図」などをご覧ください)権利は正しさ(rights)なのだから、その実現を強く要求していけば問題は解決するのだと言うのは、あまりに実際に起きている人権問題を見ていない人の意見のようにわたしには思えます。そのような「権利」の主張、要求は、むしろ結果として被害者と加害者の心の溝を深めてしまうことが多いとわたしは思います。

ふたつの「正しさ」がぶつかり合っている現実

自分とは関わりのない「どこか遠く」にいる人の人権が侵害されているのを知れば、誰でもそれに怒りを感じ、なんでこんなことが起きているんだ、おかしい、加害者はすぐに行動を変えるべきだと考えます。しかし、二つの思考実験のように、目の前の人から、「(あなたはわたしの人権を尊重していない。だから、反省して)わたしの人権を尊重するこういう行動をしなさい」と言われれば、言われた方は、「(確かにそうできればいいかもしれないが、そうするかどうかは本来わたしが決めることだ。)あなたにそんなことを言われる筋合いはない」と言いたくなるのです

理念としての人権(尊重)と実際の行動とのギャップ

今まで述べてきたことを一般的に言えば、現実の社会において、理念としての権利は相手の行動を拘束する力をまだ持っていないということなのかもしれません。理念としての権利(明文化されている憲法の中の基本的人権や、明文化されていない性的少数者の人権など)は、確かにわたしたちそれぞれが持っている権利ではあるものの、具体的行動(わたしの人権を尊重する行動)を相手に義務化するもの(相手に権利として要求していいもの)にはなっていません。お金の貸し借りにおいて、貸したわたしは借りた相手にお金を返すよう要求する権利がありますし、相手はわたしにお金を返さなければならない義務(責任)があります。しかし、人権については、そのような権利(請求)と、義務(支払い)の関係は成り立っていません

まとめ

人権については、まだそのような権利と義務の関係が成り立っていないことを自覚することが、現実に起きている人権問題について、その絡まりあった糸を解きほぐす鍵になるのではないかと思います。長々とここまで書いてきた理由はそこにあります。

補足として

思考実験として二つのケースを考えてみましたが、これらのケースには、違いもあります。【思考実験1】では、車いすを持ち上げろと要求された二人の男性は、当惑してもその場を立ち去ってしまえばそれで終わりですが、【思考実験2】では、親の対応はそう簡単にはいきません。勝手にしなさいと子どもを放っておくわけにはいかないからです。

親の対応は大きく分けると二つです。ひとつは、子どもの権利の主張を否定して、「子どもはすべて学校へ行かなければならない、だから行きなさい」と言い続けること。もうひとつは、子どもの主張の背景にある今、子どもが感じている学校へ行くことのつらさを受け入れて、「行かなくてもいい(あなたはあなたのままでいい)」と言うことです。前者の「行きなさい」と言い続けることでは、たぶん問題は解決しません。子どもを無理やり学校に行かせることはできないからです。逆に、後者のように「あなたはあなたのままでいい」と言えれば、子どもも親も救われ、結果として子どもの人権が尊重されたことになります。(くわしくは「高校生のための人権入門(24) 「正しさ」のぶつかり合いから抜け出すこと(その3)」などをご覧ください。)ただ、それはきわめてむずかしいことです。

なぜ二つの思考実験では、このような違いが生じるのでしょうか。おそらくそれは、【思考実験1】の方がより社会的な(いわば、第三者的な)問題であり、【思考実験2】の方がより親密な、閉ざされた人間関係(家庭、家族関係)に根づいた問題だからでしょう。社会的な問題は、双方が自分の主張をぶつけ合い、場合によっては裁判で決着をつけることもできなくはありません。しかし、後者はそうはいきません。家庭、家族関係の中の人権に関わる問題は、本当にむずかしい問題です。苦しんでいる当人のつらさをなんとかしたいという思いが家族の中に生じた場合は、解決に向かう可能性がありますが、それを実現することはきわめてむずかしいことです。逆に、当人の人権尊重の訴えが、「わがままで勝手な、家族のつながりを壊す、許しがたい主張」と家族にとらえられた時には、何十年も続く誤解と憎しみ合いの泥沼に入り込んでしまう可能性があるからです。


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