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『気流の鳴る音』をひらく〔中編〕

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Ⅱ 解体する気流 -- 実存の不確かさ

オーケストラの指揮者がこっけいに気狂いじみてみえる分だけ、われわれの音楽体験は貧しいように、彼らが痴者であるのは、それをながめているわれわれの視力がとざされているからである。それはわれわれ自身の側の、感覚の限界線の陰画像である。

『気流の鳴る音』p. 77

 「豊かさ」や「貧しさ」は、対象に内在する性質ではない。〈関係する〉という運動の深度が対象の側に外化されたものだ。

 読書体験が豊かであるとき、読み手とテクストは交響している。我々がテクストのなかに「気流の鳴る音」を聴きとるのは、すでに我々がそれを感覚として知っているからだ。では、我々の側の「気流」とは何だろうか。

* * *

 ここで問題にしているのは、ひゅうひゅうと鳴る気流である。すなわち、草原を駆けていく光風ではなく、実存に吹きつける寒風である。それはアイデンティティ〔社会的生命〕を解体してしまう。

戦士の〈トナール〉がちぢむときには、風にさらされているんだ。窓をすぐさましっかりとしめねばならん。でないと彼は吹きさらわれてしまう。〈トナール〉の眼の扉の外では、風が吹きまくっているんだ。ほんものの風のことだぞ。比喩なんかじゃない。人の生命を吹きさらうこともできる風だ。

『気流の鳴る音』p. 141

 ところで見田宗介 = 真木悠介は、『気流の鳴る音』よりも前から、実存の不確かさの感覚として「風」のイメージを用いている。やや冗長になるが、確認しておこう。

(以下で引用する著作について、発表年月・筆名・タイトル)

 言葉の世界に生きる我々は、言葉を交わし合うことによって互いの存在を認め合う。言葉へと疎外された世界では、自己の言葉が誰にも届かないとき、実存の感覚は限りなく希薄にならざるを得ない。

「来るべき七〇年代を輝かしき勝利の時代に!」といった叫びが、そのひとの口元からすぐに寒風にひきちぎられてゆくような朝をぼくたちは生きている。あるいは――まったく同じことだが!――叫びがどこにも達しないうちに、春のかげろうにゆらゆらと変形しながら大空のどこかに吸いこまれてゆくような午後を。

「解放のための〈全体理論〉をめざして」

 言葉をひきちぎっていく寒風は、社会的存在としての〈私〉をひきちぎっていく気流である。このような「風」のイメージは、見田宗介のみならず、広く社会に共感されてきたイメージに他ならない。存在論的安心の欠如、すなわち「根をもつこと」ができない人間たちの心情を映し出すものとして歌謡曲はうたわれたのだ。

N・Nがその言語的表現のなかで、自分を何にたとえるか、どのような事象のなかに自己を投射しているかをみると、風船、花びら(風につれ去られる)、灰(風に舞って壁をこえる)などである。これらはすべて、根こそぎにされた人間の自己投射であり、おなじく都会の家郷喪失者の群れをその主要な担い手とする、大正末以後の日本の歌謡曲の世界における、代表的な自己投射の対象――水草、根なし草、散る花びら、落葉、はぐれ鳥等々と同質の心情価をもつ。

『まなざしの地獄』

 自己の言葉や行為が誰にも届かないことよりもさらに悲惨な情況として、自己の実存を表現するための言葉や行為が見つからないことがあり得る。このとき、言葉や行為は、〈すでにひきちぎられたもの〉としてしか顕現しない。言葉はもはや実存から剥がれ落ちていくものであり、言葉と実存のすきまに寒風が吹きぬける。

現代における人間の構成的思考の営為の基礎をほりくずす、諸々の観念の角質化による思想のいわば自己剥離的様相は、少なくとも潜在的、無意識的には、ひとりの学生のみならず、じつはわれわれすべてをひたす時代の全体情況に他ならなかった。しかし同時に「言葉のすきま」のうすら寒さの感覚は、すべての時代の青年たちに繰り返し共有されてきたものであった。それは時代の情況であると同時に、これと交叉し重なり合って、すべての時代の青年の情況でもある。

「失われた言葉を求めて」

 自己の実存を託したはずの言葉が、もはや実存を表現していないとき、その言葉を介した他者からの承認は自己に届かない。他者から承認された言葉が自己の実存からすでに剥離しているとき、その皮相的な承認こそが実存を収奪する気流である。言葉へと疎外された対他存在としての自己 (“me”) は、言葉から疎外された対自存在としての自己 (“I”) を圧殺する。

まなざしの地獄の中で、自己のことばと行為との意味が容赦なく収奪されてゆき、対他と対自とのあいだに通底しようもなく巨大な空隙のできてしまうとき、対自はただ、いらだたしい無念さとして蓄積されてゆく。

『まなざしの地獄』

 これらの「気流」は、感覚としては個人的な問題だが、原理としては社会的な問題である。言葉や貨幣や組織といった人間と人間とを通訳する〈媒介〉が、あらゆる人間にとっての普遍的な〈他者〉として物象化するとき、媒介されないものは気流に吹きさらわれる。客観的な「社会」の裏側には、集合的な気流としての台風が潜在していて、それに巻き込まれた人間の実存は「社会」から根こそぎにされてしまう。「社会」が望む客体としてしか存在を許されないことの無念さは、どこにも回収されることがない。

市民社会に生きている諸個人の日常的な意識にとって、かれらの主観的な意思からは独立した客観的な「社会」の存在は、切株や河の流れの存在と同じくらいに、まったき自明のことがらであり、その法則や構造は、重力の法則や自動車の構造と同じくらいに、明瞭に認識しうるものである。〔......〕この自明性の世界からこぼれおちるのは、台風の進路にたまたま立っていたこの「私」の〈実存の非条理〉のみというわけである。

『現代社会の存立構造』

* * *

 我々は、すでに「気流の鳴る音」を聴いていたのである。実存を解体していく寒風の音を。しかし我々は、それを事後的に知るのである。〈世界を止める〉ことをとおして気流の鳴る音が止んだとき、その圧倒的な静寂のなかで、我々は気流の残響を聴きとる。

 しかし〈世界を止める〉ことは、消極的な意味での解放に過ぎない。積極的な意味での解放、すなわち気流のなかで悠然と旋回することの可能性もまた、『気流の鳴る音』では示されている。

 テクストの全体を包摂する気流と、読み手の実存を解体する気流。この二つが交響するとき、さらにテクストと読み手との関係性としての「気流」がひゅうひゅうと鳴り渡る。



〔後編へ続く〕


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