『気流の鳴る音』をひらく〔中編〕
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Ⅱ 解体する気流 -- 実存の不確かさ
「豊かさ」や「貧しさ」は、対象に内在する性質ではない。〈関係する〉という運動の深度が対象の側に外化されたものだ。
読書体験が豊かであるとき、読み手とテクストは交響している。我々がテクストのなかに「気流の鳴る音」を聴きとるのは、すでに我々がそれを感覚として知っているからだ。では、我々の側の「気流」とは何だろうか。
* * *
ここで問題にしているのは、ひゅうひゅうと鳴る気流である。すなわち、草原を駆けていく光風ではなく、実存に吹きつける寒風である。それはアイデンティティ〔社会的生命〕を解体してしまう。
ところで見田宗介 = 真木悠介は、『気流の鳴る音』よりも前から、実存の不確かさの感覚として「風」のイメージを用いている。やや冗長になるが、確認しておこう。
言葉の世界に生きる我々は、言葉を交わし合うことによって互いの存在を認め合う。言葉へと疎外された世界では、自己の言葉が誰にも届かないとき、実存の感覚は限りなく希薄にならざるを得ない。
言葉をひきちぎっていく寒風は、社会的存在としての〈私〉をひきちぎっていく気流である。このような「風」のイメージは、見田宗介のみならず、広く社会に共感されてきたイメージに他ならない。存在論的安心の欠如、すなわち「根をもつこと」ができない人間たちの心情を映し出すものとして歌謡曲はうたわれたのだ。
自己の言葉や行為が誰にも届かないことよりもさらに悲惨な情況として、自己の実存を表現するための言葉や行為が見つからないことがあり得る。このとき、言葉や行為は、〈すでにひきちぎられたもの〉としてしか顕現しない。言葉はもはや実存から剥がれ落ちていくものであり、言葉と実存のすきまに寒風が吹きぬける。
自己の実存を託したはずの言葉が、もはや実存を表現していないとき、その言葉を介した他者からの承認は自己に届かない。他者から承認された言葉が自己の実存からすでに剥離しているとき、その皮相的な承認こそが実存を収奪する気流である。言葉へと疎外された対他存在としての自己 (“me”) は、言葉から疎外された対自存在としての自己 (“I”) を圧殺する。
これらの「気流」は、感覚としては個人的な問題だが、原理としては社会的な問題である。言葉や貨幣や組織といった人間と人間とを通訳する〈媒介〉が、あらゆる人間にとっての普遍的な〈他者〉として物象化するとき、媒介されないものは気流に吹きさらわれる。客観的な「社会」の裏側には、集合的な気流としての台風が潜在していて、それに巻き込まれた人間の実存は「社会」から根こそぎにされてしまう。「社会」が望む客体としてしか存在を許されないことの無念さは、どこにも回収されることがない。
* * *
我々は、すでに「気流の鳴る音」を聴いていたのである。実存を解体していく寒風の音を。しかし我々は、それを事後的に知るのである。〈世界を止める〉ことをとおして気流の鳴る音が止んだとき、その圧倒的な静寂のなかで、我々は気流の残響を聴きとる。
しかし〈世界を止める〉ことは、消極的な意味での解放に過ぎない。積極的な意味での解放、すなわち気流のなかで悠然と旋回することの可能性もまた、『気流の鳴る音』では示されている。
テクストの全体を包摂する気流と、読み手の実存を解体する気流。この二つが交響するとき、さらにテクストと読み手との関係性としての「気流」がひゅうひゅうと鳴り渡る。
〔後編へ続く〕
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