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『気流の鳴る音』をひらく〔前編〕



序 気流の交響するところへ

 真木悠介の『気流の鳴る音』には特別な思い入れがあって、それを素材に論考を書きたいとずっと考えていた。

 書くことは、対自化することだ。〈力〉の浮力に身を任せた呪術師が地上に戻れなくなるように、『気流の鳴る音』の浮力に身を任せた読み手はそのまま連れ去られてしまう。我々がなすべきは、浮力のなかに酩酊することではなく、浮力を対自化してそれと渡り合い、自由にあやつることだ。

 『気流の鳴る音』を狩ること。

* * *

 初めてその著作を読んだとき、なぜ「気流の鳴る音」がタイトルになっているのか、うまく理解できなかった。「気流」が明示的に登場するのは第Ⅱ部の冒頭くらいで、そのシーンはたしかに迫力があったけれども、テクストの全体を代表するほどではないと思われた。

それは信じられぬほどのスピードで滑っているか飛んでいるかのような姿だった。頭はこれが限界というところまでうしろにそり、腕は目をかくすように組んでいた。私は彼のまわりでひゅうひゅうと気流の鳴る音を感じた。私は息をのみ、思わず大声で叫んでしまった。

『気流の鳴る音』p. 75
〔以下、ページ数はちくま学芸文庫版〕

 もし引用のシーンがテクストの全体を代表するのであれば、『気流の鳴る音』のテーマは「異世界に対する新鮮な驚き」ということになるだろうか。そのように解釈できないこともないけれど、それではテクストの魅力を汲み尽くせていないように思う。

 「気流の鳴る音」よりも相応しいタイトルがあると主張したいわけではない。むしろ、今の私の関心は、それがいかにタイトルに相応しいかということにある。結論を先に述べておけば、「気流の鳴る音」そのものがテクストの全体を帯電した立体的なテーマであり、それは三つの「気流」のイメージが交響することによって支えられているのである。

 『気流の鳴る音』の魔力の核心はそこにある。

 これから、三つの「気流」のイメージを発掘することをとおして、まさしく「気流の鳴る音」としてテクストを解釈することを試みる。(1) テクストの〈地〉として全体を包摂する気流(2) 読み手の実存を解体する気流(3) 読み手を異世界へと誘惑する気流。これらのイメージが交響するとき、『気流の鳴る音』は目もくらむような鮮烈さとともに立ち上がる。



Ⅰ 包摂する気流 -- 反転されたテクスト

古池やの句がうたうのは、水の音そのものではない。蛙がとびこむ水の音がひろがりそして消えてゆく静寂の質のようなものだ。水の音という図柄はじつは、このしずけさの地の空間を開示する捨て石なのだ。

『気流の鳴る音』p. 146

 「かはづとびこむ水の音」が〈図〉として成立するのは、それが圧倒的なしずけさという〈地〉に支えられているからである。我々はその句を通じて、「水の音」を包摂する静寂を追体験することができる。

 『気流の鳴る音』のテクストの全体をひとつの〈図〉として捉えたとき、それを支える〈地〉は何なのだろうか。

* * *

くりかえしいっそうの高みにおいておなじ主題にたちもどってくる本書の文体は、翼をひろげて悠然と天空を旋回する印象を私に与える。

『気流の鳴る音』p. 42

 これは真木悠介がカスタネダの四部作について述べている部分だが、あきらかに『気流の鳴る音』のテクストも「旋回」として構成されている。第Ⅳ部から二つ引用しておこう。

われわれはひとわたり旋回したあとで、ようやくあのナヴァホ族の讃歌の世界にもういちど舞戻ってくる。

『気流の鳴る音』p. 159

われわれが今終えてきた旋回の中でひとつひとつみてきたように、この四つの「敵」の配置は、この論文のはじめに設定した主題の四つの象限と対応している。

『気流の鳴る音』p. 162

 しかし、テクストを総括するのは「旋回」のメタファーだけではない。以下で示すように、第Ⅱ部の主題の「世界を止める」は「舞い上る翼」として、第Ⅲ部の主題の「統御された愚」は「舞い下りる翼」として、それぞれ表現されている。

局面Ⅱにおいて「世界」の地平を超えて舞い上る翼を獲得した知者が、ふたたび「世界」の地平へと舞い下りる翼にそれは他ならない。

『気流の鳴る音』p. 140

 さらに「翼」のメタファーは、結部のテーマである「根をもつことと翼をもつこと」に引き継がれる。翼をもつことの欲求は、根をもつことの欲求とともに人間の根源的な欲求として把握され、それらの二律背反を超える道が模索される。

 このように『気流の鳴る音』では、「旋回」と「翼」の二つのメタファーが〈図〉の中核となっている。だとすれば、それらはどのような〈地〉に支えられているのか。旋回を可能にするもの、翼を翼たらしめるもの、それこそが「気流」に他ならない。〈図〉としてのメタファーを反転させたところに、テクストの全体を包摂する「気流」のイメージが潜在している。

 「気流の鳴る音」とは、テクストの大空に翼をひろげて旋回する読み手が、まさに感覚として経験する音である。読み手は、ひゅうひゅうという気流の鳴る音を聴きながらテクストを読みとおすのである。



〔中編へ続く〕



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