見出し画像

『気流の鳴る音』をひらく〔後編〕

■ 前編と中編はこちら



Ⅲ 誘惑する気流 -- 窓の向こうの異世界

とざされた世界のなかに生まれ育った人間にとって、窓ははじめは特殊性として、壁の中の小さな一区画として映る。けれどもいったんうがたれた窓は、やがて視覚を反転する。四つの壁の中の世界を特殊性として、小さな窓の中の光景を普遍性として認識する機縁を与える。自足する「明晰」の世界をつきくずし、真の〈明晰〉に向って知覚を解き放つ。窓が視覚の窓でなく、もし生き方の窓ならば、それは生き方を解き放つだろう。

『気流の鳴る音』p. 121

 カスタネダにとって、まずドン・ファンとドン・ヘナロが「窓」だった。しかし、初めのころのカスタネダは、彼らを特殊性としてのみ理解し、自らの世界の普遍性を疑わなかった。視覚を反転する契機となったのは、エリヒオの周りに「気流の鳴る音」を聴いた夜である。その夜、カスタネダは「窓」の向こう側へと足を踏み出したのだ。

それは信じられぬほどのスピードで滑っているか飛んでいるかのような姿だった。頭はこれが限界というところまでうしろにそり、腕は目をかくすように組んでいた。私は彼のまわりでひゅうひゅうと気流の鳴る音を感じた。私は息をのみ、思わず大声で叫んでしまった。

『気流の鳴る音』p. 75

 我々にとっては、『気流の鳴る音』こそが世界にうがたれた窓である。自らの生きてきた世界が唯一の世界ではないこと、異なる原理に支えられた〈異世界〉が存立しうるということを、それは見せてくれる。

 『気流の鳴る音』は、カスタネダが聴いた「気流の鳴る音」と重なりながら、〈異世界〉への窓としてのイメージを発酵させる。我々は『気流の鳴る音』の向こうに、ひゅうひゅうという音を聴く。これは、読み手を〈異世界〉へと誘惑する気流に他ならない。



結 『気流の鳴る音』を狩る

 これまで我々は、『気流の鳴る音』に帯電した「気流」のイメージを発掘してきた。いまこそ『気流の鳴る音』を狩るときだ。

 Ⅰ 包摂する気流 -- 反転されたテクスト
 Ⅱ 解体する気流 -- 実存の不確かさ
 Ⅲ 誘惑する気流 -- 窓の向こうの異世界

 『気流の鳴る音』はとても魅力的なテクストだからこそ、それと距離をとらなければ連れ去られてしまう。しかし、テクストの美しい部分を味わうためには、それに近づかなければいけない。気流にさらわれて戻れなくなる危険性と隣り合わせだということが、それをさらに魅力的に見せているのかもしれない。

 私はこの論考をとおして、『気流の鳴る音』がなぜ魅力的なのかを明らかにしたつもりである。孫氏の『兵法』には「彼を知り己を知れば百戦殆からず」という格言があるが、まさにそれに忠実に従って、テクストの構造と読み手の実存、そしてその関係性を説明することを試みた。『気流の鳴る音』は百戦に値する相手である。

 もちろん、ここで提示したのはひとつの解釈に過ぎない。しかし、この解釈で武装すれば、正気を保ったままで『気流の鳴る音』にさらに接近することができるはずだ。

 私のテクストが「気流」を捉える翼になることを願う。



〔終〕


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?