環境問題と環境芸術について


 環境問題の根底には、〈ズレ〉としての人間存在がある。

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 マルクスが『資本論』で問題にしていたのは、人間相互の関係性における〈ズレ〉であった。諸人間の行為は、物質的な共同性に基づいているから、互いの生産物を交換することは必然である。しかし同時に、諸人間の経験は、意識的な孤立性に基づいているから、互いの生産物を交換することは偶然である。

物質的な次元における共同性
〔人間 // 人間〕
意識的な次元における孤立性

 この文脈において資本制社会とは、行為と経験の断層的な〈ズレ〉を有耶無耶にして、物質的な共同性を基盤にしながら意識的な孤立性を存立させる装置に他ならない。エゴイズムを体現する近代的個人が、まさしく「近代」の産物であることの秘密がここにある。

〔もちろん、これは浅田彰の『構造と力』から『資本論』を読み直したものである。物質的な共同性を有しているはずの諸人間において、そこから意識的に「個人」が離陸するためには、物質次元と意識次元の〈ズレ = EXCÈS〉を有耶無耶にしてしまう仕掛けが必要だった。〕

 しかし、ここで問題にしたいのは、さらに本源的な〈ズレ〉である。すなわち人間相互の関係性に先立つ、人間と自然との関係性における〈ズレ〉である。

物質的な次元における共同性
〔人間 // 自然〕
意識的な次元における孤立性

 マルクスが『経済学哲学草稿』で問題にしていたのは、まさに人間と自然との関係性であった。物質的には自然と連続しているはずの人間は、差異を生みだす「生産」のプロセスによって、意識的には「自然」から離陸した「人間」として存立する。

 貨幣に媒介された生産物の獲得が、人間と人間とを物質的に結びつけながら意識的に切り離すように、生産活動に媒介された生産物の獲得は、人間と自然とを物質的に結びつけながら意識的に切り離す。資本制社会において生産活動の強度が不断に高まっていくことは、人間と自然との関係性における〈ズレ〉が不断に拡大することを意味する。生産活動の強度は、物質的な共同性と意識的な孤立性の双方に比例するからである。

 ここまで整理すれば、「環境問題」と言われるものの本質が見えてくる。それは、人間の生産活動の強度が高まっていった結果、人間と自然との物質的な共同性を意識せざるを得なくなった事態である。しかも、その物質的な共同性を意識する主体は、資本制社会のなかで他者から切り離された「個人」である。

 物質的な共同性と意識的な孤立性の双方を基盤にしている資本制社会において、二重の孤立性を貫徹しようとしたがゆえに、二重の共同性が浮き彫りになってしまった。生産と交換の無限運動のなかで有耶無耶になっていた二重の〈ズレ〉が、地球環境という絶対的な制約に直面して、巨大なスケールで顕在化したがゆえに、もはや〈ズレ〉の意識化を避けることはできない。

物質的な次元における共同性
〔人間 // 自然〕
〔人間 // 人間〕
意識的な次元における孤立性
〔人間 // 自然〕
〔人間 // 人間〕
意識的な次元における共同性

 もちろんこの時点では、環境問題が「問題」として提起されただけである。物質と意識の矛盾、すなわち行為と経験の矛盾が、意識の内部矛盾へと転化したに過ぎない。

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 意識の内部矛盾を解消すべきである。

 そのためには、孤立性ではなく共同性を意識の中心に据えなければならない。自然と人間の共同性、そして人間と人間の共同性を、高度な生産活動と交換活動に基づいた社会の中で、ふたたび意識化する必要がある。

物質的な次元における共同性
〔人間 // 自然〕
〔人間 // 人間〕
意識的な次元における共同性

 この意味で、「環境芸術」と呼ばれるものは環境問題を緩和しうる。環境問題への対策として環境芸術を用いるのであれば、それは二重の共同性を意識化するものでなければいけない。それはつまり、感受性の訓練であり、世界観の解体と再構築である。

 環境問題の根底に〈ズレ〉としての人間存在があるならば、環境問題の解決のためには〈ズレ〉の解消が求められる。環境芸術は、「芸術」という疎外された形式ではあるものの、〈ズレ〉を解消する回路を提示しているのではないだろうか。

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 本論の補足として、いくつか引用を載せておこう。

自然とは、それ自体が人間の身体ではないかぎりで、人間の非有機的な肉体である。人間が自然に依存して生きているということは、自然が人間の肉体であるということであり、人間は死なないためにはたえず自然と交流しなければならないということだ。人間の肉体的かつ精神的な生活が自然と結びついているということは、自然と自然が結びついているというのと同じだ。人間は自然の一部なのだから。

カール・マルクス『経済学哲学草稿』(第一草稿)

カラスが予言するというような諸民族のいいつたえにおいて、問題は個々の動物や植物の行動を「予兆」としてよみとる知識の蓄積といったものではない。そのような個々の「予兆」への技術化された知識自体は、われわれの「世界」の中にも、たとえば仮説的情報として切りとってくることができる。けれどもこのような「知恵」じたいをたえず生成する母体そのものは、たとえばこの世界のすべてのものごとの調和的・非調和的な連動性への敏感さや、自己自身をその連動する全自然の一片として感受する平衡感覚の如きものであり、「予兆」への技術化された個々の知識とは、このような基礎感覚の小さな露頭にすぎないのだろう。

真木悠介『気流の鳴る音』

子どもたちの世界は、いつも生き生きとして新鮮で美しく、驚きと感激にみちあふれています。残念なことに、わたしたちの多くは大人になるまえに澄みきった洞察力や、美しいもの、畏敬すべきものへの直感力をにぶらせ、あるときはまったく失ってしまいます。もしもわたしが、すべての子どもの成長を見守る善良な妖精に話しかける力をもっているとしたら、世界中の子どもに、生涯消えることのない「センス・オブ・ワンダー=神秘さや不思議さに目をみはる感性」を授けてほしいとたのむでしょう。

レイチェル・カーソン『センス・オブ・ワンダー』



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