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親に「仕事やめてもいいよ」「自殺してもいいよ」って言われた日

お久しぶりです。
本当に久々の投稿だ〜…って自分に驚いてます。

わたしの現況については、まあ下記の記事で…っていう風に行きたいんですけど、まあカチッとやっぱり整理をしますかね。

(本質的な自己紹介っぽいのはこっちっぽい。)

「私は私」のわたしの今

ざっくり言うと働いていて適応障害になって、3ヶ月間療養休暇をもらっていて、1月から職場復帰してました。

休んでいた頃にnoteを初めて、自己表現することの楽しさを思い出しました。実際、noteは楽しかったです。

すべてが絶好調というわけではなかったけど、また働き始めても大丈夫かな?と思って1月から復帰したら、休む前とは違う、心のつらさやしんどさにいられなくなって、苦しんでいます。本当に、苦しいです。

職場復帰した8日目のことです。周りの人のいろいろが気になったり、いろいろなことを考えていました。お手洗いのために席を立った時、廊下の窓が開いていたんです。
飛び出したくなりました。ここから飛び降りたら、死んじゃうな…?って思って、どこか冷静に、外の景色を見下ろしていました。
フッと冷静に戻った時、自分が怖くなりました。今まで何度も死にたいって思っていたけど、初めての経験でした。

私の心は、治ってない。
今のこの職場じゃ、やっぱりよくなんてならない。仕事はつらいし合わないし、周りの人は嫌だし、アパートに帰っても休まらないし。

それでもなんとかいい風に物事と心が進むように、上司が話を運んでくれました。(こうやって考えれば、めっちゃ優しいですね。)

療養しながら、なんとか実家から通えるオフィスに転勤させてくれるように人事を運んでくれるとのことで、一安心…かと思いきや。
今度は私が「早起きできるのかな?」「何時に帰れるの?」「生活リズム狂わないのかな?」「新しい人間関係は?」とか、いろいろ考えてしまいました。

結局は、それに私は適応できるのかな?ってこと
あと、私の仕事って転勤族なので、遅かれ早かれ変わるものばっかりなのでそれ自体もどうなんだろう、とも思います。

過程はたくさんあって省略するんですけど、そうやって考えていくうちに「この仕事向いてない」って思うようになって、だんだん自分が「社会生活で生きることに向いてない」って思うようになりました。

病む前から私は自分のことを「生きることに向いてない」「生きづらい」「普通に生きられない」人だとは思っていました。

そうやって考えてしまうこと自体、病気なんだって親は言いますけど、もはや私の性質だと思ってます。
病院ではASD(アスペルガー症候群)の傾向が見られる発達障害のグレーゾーンだって言われたり、最近ではHSPっていう言葉が出てきたりしますけど、結局は「私は私」なんですよね。

性質だけでいえば、

●とにかくネガティブ
●心身が繊細で不安定
●いろんな声や物音が気になる
●特定の人付き合いに難がある
●「当たり前」ができない、そう思えない

言語化するとなんか陳腐に感じてしまうので、これ以上は書き出したくないなあ。

「私は私」っていうのはいろんな記事で、もう口が酸っぱくなるくらい言ってて、それ以上でもそれ以下でもないともう結論付けてます。
「私は私」。それが答えであると同時に問いかけなんです。だからこんなに苦しみの無限ループなんです。

一日一日を生きるその先に、本当の未来はあるの?

そんなことを考えていた時(ひと月くらい前の
ひと月くらい前)に親から言われたんです。

「なんとか一日、一週間って生きてみない?先のことは考えなくていいよ。なんとか1日って乗り切って生きていこうよ」って。

確かになと思いました。
誰からどう思われてもいいと。とりあえず職場ではもういられず、帰りたくなったら帰る、休みたくなったら休む。

冷静に考えたら、いくら病人とはいえそんなことをして許される(?)恵まれた職場にいると思います。給料もよくはないし大変な仕事だけど、こうやって文字にすると滑稽すぎます。
でも、私はしんどくなっちゃったんですよね。
考えると、本当に変な仕事です。福利厚生がしっかりしてるだけの、変な仕事です。

頑張っていい大学に入って、そこからまた頑張って就活して、いざ就職が決まった時はそこがゴールだと思ってました。
でも、仕事を初めてみたら、なんかこの仕事向いてないなあ・合わないなあ…って思いながら今日まで生きてきました。

親とかに相談しながら、「本当にやりたいことは何?」とか「続けられることって何?」や「自分にとって大切なことって何?」、そしてその先の「そのために必要なことは何?」ってこと。
今の仕事を続けるとかは関係なく、それを考えながらゴールを特に意識せず、一日をとりあえず生きていってよ、と。
そう言われて確かになって思いました。私って先のことばっかり考えちゃうんですよね。どんなことも、どんな時も。

でもね、もうこの一瞬…考えること全てに疲れちゃったんですよね。すべてのことに疲れたし、苦しいんです。
てかそもそも、考えるなって言われても考えてしまうし、今を生きることは未来を生きることなんだから意識しないっていうことの方が難しいなって思います。

今までは「なんで頼んでもないのにこの世に生まれてきたんだろう?」とか、「死にたい、寿命を誰かにあげたい」とか思ってたんですけど、最近は単純に「生きることを続けるのがしんどい」っていう状況です。

もうね、考えるのがただただ苦痛。考えたりするのは100歩譲っていいとしても、周りで何か起こるっていうそのことが疲れるんです。

「仕事やめてもいいよ。もう働かなくていい。親の年金でみんなで節約しながら生きて、親が死んだらあなたもそこで死ねばいい。」

そんな私に今日、お母さんがかけてくれた言葉でした。

私は何て返したらいいかわからなくなりましたし、今もこのコメントには何にも返せていません。
ただ感じたのは、「お母さんからの愛」です。
お母さんは私のことが大好きで、生きていて欲しい。それだけなんだなって改めて思いました。悩みながら、本当の意味で私にかけてくれた言葉なんだと思いました。
でなくちゃ、こんなこと口が裂けても言えないと思います。

冷静に考えたら、お母さんはいつも私のことを一番に考えてくれていました。私の幸せを常に考えてくれていたんです。
働くのがつらくて苦しい、考えることがつらくて苦しい、極め付けに生きることがつらくて苦しい…って言ってる人に、それを強いることはしないんです。
優しさに涙が出そうになりました。

「手につく職があるなんていいことだ、やめるなんてもったいない」
「今の仕事をやめたら、次は何をするの?」
「みんな我慢して生きてる。仕事にやり甲斐を見出してやってる人なんていないよ」
「みんな生きる意味がなんてわかってないなりに、生きてるんだよ」

世間の「当たり前」の声です。
実際、最初は親もそう言っていましたが、私の心に本当の意味で寄り添ってくれたお母さんの言葉は違いました。
「仕事なんて辞めて、一生働かなくていい」
「生きていてほしいけど、私が死んだらあなたも死んでいい」

生きることは一旦置いておいて、仕事をしなくてもいいのは、確かに魅力的かもしれません。
ただ私は、何らかの形で人と関わったりする上で、生産的な活動をすることに意味があるとは思うし、やりたいなあとは思ってはいます。

こうやって文章を書くのも好きだし、意見を持ったり造形に触れるのが好きです。
人と話すのも嫌いじゃないはずなのに。

そういう興味や意欲を見出せる最たるものの中に、やりたい仕事やできる仕事はあるのかな、とかは思っていたんですけど…。

仕事ってなんなんだろう、って心の底から思いました。
自分の心の豊かさだけを求めたその先に、なけなしの幸せがあるならそれも素敵なのかなって思います。
つらいことを我慢し続けて、自分を殺して、意味のないことをし続けることを仕事にし続けるのはつらいなあとだけ思います。

でも、もう。
今の私には、すべてのことが、何もわかりません。考えられません。
病気が治れば、何か変わるのかな。
てか、病気ってなんだろう。うわ、また考えちゃう…

推敲しない殴り書きの文章ですが、心に留めて置けないので久々にnoteに放流。あとで編集するかも。

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