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料理を愛する全ての人に捧ぐ、私なりのエプロン論

あら不思議、いかにも料理ができそうな人に見えるではありませんか

料理は労働か?

エプロンを語る前に家庭における料理は労働か?について少し触れておきたい。

私には労働のような気がしている。事実、辛いときは辛い。料理は私は好きな部類だが、どうしても「面倒くせー」という日もある。私のような独り身なら、最悪食べないという選択肢も残されているが、家族を支える母や父はそうもいかないだろう。ましてやご家庭よっては子たち自らがご飯の支度をするという場合もあるだろうから、料理というのは案外にハードルが高い。

とにもかくにも、基本的に働くことよりも休むことが好きな私にとって、「面倒くせー」と思いながら始める料理は労働のようなものでもある。

寝間着で料理する怠惰な私

ただ労働とは言ったものの、私の場合、朝の寝間着のままで包丁を握ったりしてしまうのも事実だ。

昨今はリモートワークが盛んになり始めたとはいえ、きっと世のワーカーたちは家でもスーツやオフィスカジュアルに着替えたりするのだろう。おそらくだが、スウェットやパジャマのまま仕事するという人は少ないのではなかろうか。

そのため、料理が労働であるならば、寝間着のままで、その労働に参加するべきではない。すなわち、料理をするための制服を身にまとうべきである。

さて、最近、寝間着を制服に変えてくれるアイテムをついに見つけてしまった。

エプロンの力 

そう、エプロンである。
あら不思議、いかにも料理ができそうな人に見えるではありませんか。
デニム地の私のエプロンは寝間着を覆い隠くそうとする。学生服さえ着てしまえば、肌着の色が分からないのと同じように。

そして、腰で紐を縛ると体がシャキッとする。ダラダラ料理をしていた私と、エプロンを着た私では、心なしか作る料理に味の差が出る気がしているのだ。

もちろん水や粉といった不慮の事故から私を救ってくれるので、何の躊躇いもなく料理に集中できる。

なぜこんな素晴らしい制服を25年も無視し続けてきたのだろう。私は私を恥じたい。

衣服は人を決めたりするから

我々は身にまとう衣服によって自分や他人をカテゴライズしてしまう。

例えばどんな極悪人でも警官服を着ていれば、正義感溢れる人に見える。またどんな金持ちでもズダボロの身なりをしていると貧困に喘いでいるように見えてしまうものだ。

つまり、衣服は記号なのだ。衣服は私達に「あの人は警官なんだ」「あの人は貧乏なんだ」といったイメージを記号として消費させる。

私はきっとエプロンの記号である「料理ができそうな人」を消費し、自己肯定感に浸っているのだ。そしてまた、その記号に憧れ、「料理するぞ!」と腰紐を結びながら気合を入れているのだろう。

エプロンの効果は汚れから身を守るだけではない。エプロン自身の記号を消費をすることで、料理に勤しむ自分を褒めてあげられたり、料理に日々挑戦するスイッチを押せることでもあるのだ。

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ただ、この記事は「うわぁ、寒くて布団から出たくねぇ」と寝間着のまま朝飯も食べずに書いています。
やはりエプロンが料理の衣服であるように、寝間着は寝るときの衣服として力を発揮しているようです。

誰か布団から人間を主体的に起き上がらせる衣服を開発してくれませんかね?絶対買いますから、私。

ということで、本日はこれまで!
お読みいただきましてありがとうございました!

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高価な本なので、ぜひ図書館にてお探しくださいね。
エプロン論って何か「ロンロン」っていう音の感じが好きです。

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