農家が収穫よりも好きなこと
「この世に在る線は全て、線分である」
高校生の時に、そんなフレーズどこかで目にした。直線とは、ある2点を通る無限に続く線である。だから、その2点は端点ではない。一方で、線分は有限で端点が2つすなわち始点と終点を持つ。
高校時代、数学の授業で配られたプリントの座標平面にはしばしば2点を通る直線が印刷されていた。しかし、それはやはり数式的には直線でも、眼前の物質的な事実としてはせいぜい5㎝くらいの線分だった。私はその後も大量の線分を直線と呼びながら高校生活を送った。
時に一生を直線になぞらえる人がいる。「人生という名の直線」といったところだ。とはいえ、全ての線が線分だと聞いてしまった私は、一生もまた線分のように感じてしまう。いうなれば
「一生とは、生と死の2点を端点とした線分」
といったところである。
とりあえず人生が線であることだけは確かだと仮定しよう。ただ、そのとき私はその線上にいないと思う。高校生の時よろしく、別の世界からその線を俯瞰しているのだ。だから、一生はプリントに記された直線的な線分のように、どこか無機質に感じられる。
そのせいか、死にたいという人の気持ちも何となく理解できるし、逆に昔から括弧つきのアツさを強要してくる人は苦手だったりもする。
そんなもはや線分並みに無機質な私もかれこれ農家になって4年になる。そしてまた今年も春が来た。無機質な人間でも春は嬉しい。なぜなら芽吹きと成長の季節だからだ。
私は主に唐辛子を育てているが、正直秋の収穫よりも、この春の種まきや育苗の時期が一番好きだ。「こいつら、どこまで大きくなるのかな」なんて夢想する時間には、こんな私でも果てしない希望を持てたりもする。
いつの日だったか、芽が出ない種、なかなか大きくならない苗たちにヤキモキしていると、畑仕事を教えてくれている80代の近所のおばちゃんがアドバイスをくれた。
「芽が出る、大きなるって信じたり」
単なる偶然かもしれないが、そう信じてみると不思議なもので芽は出たし、苗は順調に大きくなった。
思うに、ヤキモキとする気持ちは、彼らを線分としか見れていないということの証左だろう。無論、何百粒と種をまけば、成長不良もあれば、そもそも発芽しない種もごまんとある。
にもかかわらず、そんな唐辛子たちの一生を俯瞰して線分的に一喜一憂していると、やはり無機質に彼らを眺めてしまう。あいつは生きたし、こいつは死んだなんて風に。
一方で、信じるというのは、同じ線の上に立ち、同じ目線で未来を見据えることだと思う。つまり、彼らの一生を直線として見つめるということだ。その時、終点や始点の存在など脳裏にさえ過らない。
農家は種まきから収穫後枯れるまでをワンシーズンなんて呼ぶが、唐辛子からすれば昨季に残した種がまた芽を出して大きくなっていくという無限のサイクルを繰り返しているだけなのかもしれない。すなわち、終点も始点もない直線という訳である。
だからこそ、無機質で線分のような私でも、彼らには直線的な希望を感じられるのだろう。
「自分の一生を直線として謳歌できるか」
もしかすると、農家になった私は唐辛子たちからそんなことを問われているのかもしれない。
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