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学問すると「分からない」が増えていく

学問は分からなくなってからが本当の勝負だ

分かる=解ける

分かると楽しい
長らく私はそのように親からも教師からも育てられてきたように思う。

たしかに一般にこれは紛れもない事実でろう。
他方で、幼い私にとっては分かる=解けるであったように思う。
このとき、解けるというのは与えられた命題に対して解を導くという意味である。それができると、高校生くらいまではいわゆるデキる子になれる。
ざっといえば、テストで高得点を出す子である。

私自身、他人よりも分かった、いや解けた。そのため、手前味噌だが私の生まれ育ったエリアでは割とデキる子だった。
ただ、その解くという行為を心から楽しいとは思えなかったのも事実である。だからこそ「解けるというのは楽しいことなんだ」と思うようにもしていた。基本的にはこの感覚は大学生の頃もあまり変わらなかった。

問いを解く、問いを立てる

そんな私に思わぬ一言をくれたのは、学部生時代のゼミの指導教員である。当時、大学院進学の準備をしていた私に、

「学部までは与えられた問いを解くところだけど、大学院は自分で問いを立てるところよ」

そう指導してくださった。彼女は与えらえた問いを解くという意味で学部までの学びを「勉強」と呼んだ。そして大学院からの学びを問いを立てるという意味で「研究」と称したわけだった。

問いを褒められる

彼女の言うことは本当だった。
つまり、大学院という場所で教授や先輩たちは「それはいい問いだね」なんて会話をよくしていたのだった。

学部生までは問いを解けば、ほめてもらえた。
でも、この空間ではたとえ解も持っていようとも、問いの質が低ければ誰も面白がってはくれなかった。逆に、解は見えていなくても、問いさえ面白ければどんどんと耳を傾けてくれる人たちがそこにはいたのだ。

問いは問いを呼ぶ

なぜ問いが歓迎されるのか。

その理由は、問いが問いを呼ぶからだ。
大学院での時間の大半は、ほぼ予想の時間であった。書籍や論文という知の集積とも言えるものを読めば読むほどに、予想の精度は上がっていく。つまり、分かることが増えていくのだ。

とはいえ、予想して分かっていると思ったことを実際調べてみると、予想外の結果を生んだりもする。
それは「あんなに予想したのに、なぜ分からないのか?」、そして「私が分からないのは、もしかするとこのような理由があるのではないか?」と問いが問いを呼ぶ状況が巻き起こることを意味している。

この「分からない」が頭を駆け巡る状況は、解ける楽しさなんて霞んで消えてしまうくらいに、圧倒的な満足感を私に与えてくれたものだった。

学問は学「問」

学部時代の恩師は、問いを立てることが重要だと言った。
たぶんそれは「分かる」よりも「分からない」と真摯に向き合いなさいという教えだったのだろう。

だから今の私は、そんな分からないと向き合う行為を学問と呼ぶのだと思っている。であるからこそ、学問には「問」という漢字が使われているのではないか。それはきっと分からないと出会ったときに「学んで問いを立てなさい」という意味なのだ。

私たちは与えられた問いを解くために、先人が導いた解を学ぶことができる。その活用こそまさしく、私が楽しめなかった与えられた問いを解くという行為だ。

一方で、私たちは問いを学ぶことはできない。というのも、問いは解ではないからだ。つまり、問いを知っているだけでは、何も現状は変わらない。
だからこそ、問いは立てることに意義がある。
つまり、問いを立てるなかで自分がいかに「分からない」かを自覚できるのだ。

頭の中で分かるが先行している間はきっとまだ学問できていない。
学問は分からなくなってからが本当の勝負だ。

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私が熱をもって書いた内容を一言で言えば、

無知の知

古代ギリシャでソクラテスが残した言葉は令和の私にも深く突き刺さっています。

というわけで、本日はこれにて。
noteを始めてすぐのころにこんな記事を書いていましたので、よければ。


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