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「家庭料理のプロ」は矛盾しているのか?

「だとすると、おばちゃんは家庭料理のプロですね」

絶品の家庭料理

農家民宿であるウチの宿では、調理体験として朝と晩の食事を提供している。つまり、その料理と体験に対して対価を頂戴しているわけだ。

先日、同業の農家民宿におじゃますることになり、食事をさせてもらった。70代で民宿のオーナー(以下、愛称としておばちゃん)が作る料理はどれもとても美味しかった。

「うちは、家庭料理だとか田舎料理しか出せんけど、これで喜んでいただければありがたい限りです」

すると同行者の一人が声を上げた。

「だとすると、おばちゃんは家庭料理のプロですね」

なるほど、今まで私の中にあった違和感が取れたような気がしたのだ。

何に対してプロであるべきか?

違和感というのは、私が何に対してプロであるべきか?という問いについてである。私は宿のオーナーでありながら農家でもある。農家としては、栽培基準を持ってみたり、先輩農家の指導を受けたりとプロ意識はあると言える。

他方で料理については、私なりに勉強しているとはいえ、料理は独学で自習するか、島のおばちゃん・おっちゃんに教えてもらう程度なのだ。

「料理のプロですか?」と問われると、「はい、そうです」とは言い難い。

もっとも「料理のプロ」という言葉を耳にすると、私は「板前として5年」だとか「フランスで2年」といった経歴がイメージとして浮かんでくる。この点では私が対価を頂戴する料理も、家庭料理の域を脱しないと言えるだろう。

プロ感で敷居が高くなる?

では、なぜ違和感が取れたか?それは家庭料理がもたらす「距離の近さ」にある。

私はかねてより、あまり「プロ感」を宿のオーナーとして出したいとは思っていない。なぜなら、プロ感が出すぎると「お客様から縁遠い存在」に見えてしまうような気がしているからだ。

また私がお出しする料理は「自分でも作れなくはないけれど、自宅では面倒くさくてトライしない料理」でありたいとも思っている。つまり、ちょっとした非日常感はあるけれど、あくまで手が届く範囲に私自身が存在できればと思っているのだ。

この意味で、おばちゃんが「家庭料理のプロ」であり、宿にリピーターが存在するという事実は、この距離感が極めて適切であるということなのだろうと私は思う。

「家庭料理のプロ」が宿るのは?

もちろんプロの料理人からすれば、「何をお金をもらうプロとして甘えたことを言っているんだ」と感じる人もいるだろう。

ただ私含め農家民宿のオーナーが提供できるプロ意識は料理という行為ではなく、宿の雰囲気やコミュニケーションはもとより、やはり食材を自分で育てているという点にあるのではなかろうか。

東京の一流レストランに、畑はない。これは紛れもない事実だ。
逆に私は「使用する肥料」「成長の度合い」「収穫時期」などによる味の違いを、成長を真近でみているからこそ説明できたりもする。

もっとシンプルに、例えば採れたての小松菜はさっと味噌汁にいれるだけで、驚くほど美味しかったりもする。小松菜の味噌汁は確かに東京都心のアパートでも、割烹料理店でも食すことができる。ただこればかりは採れたての味に勝るとは、私は思えない。

農家民宿のオーナーが「家庭料理のプロ」として存在するためには、そもそもプロの料理人とは違ったところで真価を発揮すべきなのだろう。

5月16日。最近の夕食は中華料理が多いです。
香川本鷹を使った油淋鶏と麻婆豆腐、わさび菜の春雨サラダ、赤玉ねぎと甘夏のサラダ、そら豆のグリル、チンゲン菜の卵スープ。
葉物が旬で食べられるのもあと少し・・・

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★春に種まきした野菜が花を咲かせようとしています

香川の離島で農家民宿やっています

★油淋鶏のレシピはこちらから↓


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