ナナメの昼過ぎ
#読書の秋2021 #ナナメの夕暮れ
『ナナメの夕暮れ』の読了後、カラオケルームの会計を済ませることにした。
私と異なる一冊
オードリー・若林正恭さんの『ナナメの夕暮れ』をようやく読んだ。
もちろんとても今日深い内容であったのだけれど、他方で、
と思ったのも事実である。これまで彼のエッセイはすべて手に取ってきたのだが、「そうそう、これが言いたかった」ということが極めて多く、実際私の本棚の最前列に陳列してもいる。ただ『ナナメの夕暮れ』は「ちょっと自分とは違うかも」といったところであった。
人は変わる
一番好きな芸人さんは誰ですか?と聞かれると、オードリーだと答える。毎週土曜日のオードリーのANN(オールナイトニッポン)を本当に楽しみしている。なんならTVerで彼らの番組をほぼすべて見ているし、姉は先日、私にリトルトゥースTシャツを買ってくれた。
さて、これは、人見知り芸人でおなじみの若林さんがテレビかラジオで発した一言だ。私は心底衝撃を受けた。
人って変わるんだ、と。
それ以来『ナナメの夕暮れ』について、私個人としては、夕暮れというタイトルの意味合いを「物事をナナメに見ていた著者が変化していった様」だと捉えている。
つまり、人はどんなにひねくれ、ナナメに傾いていても、いつしか変わりうる存在だということだ。
※リトルトゥース:オードリーのANNのファンリスナーのこと
共感の時代を考える
今思うと、共感を覚えない本を最後まで読み切るのは久しぶりだったように思う。「なんか自分と違うな」と思うと、そのような本は途中で読むのを止めてしまっていた気がする。
どうやら昨今は「共感の時代」だと言われているようだ。例えば、マッチングアプリを使えば相手の趣味だとか、好みだとかを事前に把握できる。パートナーとの出会いも共感が大前提なのだ。高齢者がよく口にする「お互い全く違う性格で」なんていう夫婦の関係は、これから減っていくのかもしれない。
また数年前の話だが、大学院生の頃、この共感の時代を「カラオケボックス」と言い表す一節をみつけた。平成中期までの社会はいうなれば「シネコン(シネマコンプレックス)」であったという。映画館に行って「こんな映画もやっているんだ」といいながら、自分の好きな映画を観る。自分の好きな映画を観るとはいえ、一応は他人の好みも把握できるのがこの時代である。
他方で、今はSNSを筆頭に、「共感できる者同士で集まる」ことが一般的になった。それはカラオケルームに仲間だけで入室することに似ている。しかも、外部者はその部屋でどのようなジャンルの歌が歌われているかは分からない。これは内部者にとっても然り。つまり、閉鎖的な共感の世界が乱立する時代に突入したということだ。
ナナメの昼過ぎ
私はというと、『ナナメの夕暮れ』の読了後、カラオケルームの会計を済ませることにした。たとえ共感できなくても、新しい何かに出会いたくなったのだ。
今まで手にしたこともないジャンルである歌集、そして俵万智さん歌集『サラダ記念日』を買ってみた。
私はまだこの気持ちが分からない。概ね、食事を一人で済ましているせいだろうか。7月に食べるサラダということは、胡瓜がメインなのだろうか?なんていう邪念すら湧いてくる。
ただそれでいいのだ。共感できなくとも、その存在を知っておく。それが共感の時代から少し距離を置くために必要な心がけなのだと私は思う。そうしているうちに、いつか「だから、俵さん/若林さんはこんなことをあの本で言っていたのか」分かるはずだから。
昔理解できなかったことを理解できるようになったり、それによって自分がほんの少しだけでも変化したり。
それが、きっと人生の「夕暮れ」なのだ。
だとすれと、私の人生はまだまだ「昼過ぎ」くらいであろう。
そう思うと、共感できなかったはずの「夕暮れ」の到来がどこか楽しみになってきた。
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好きな人なら共感できない部分も読めちゃうんですね。
そうそう、本日土曜日はオードリーのANNの放送日です!
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