”編集”ばかりの世の中じゃ、地域の価値なんて生まれない
「地域の素敵なものを沢山集めて」
「誰かと誰かを繋ぐ」
最近こうした声に耳を傾けることに体力が必要になってきた。いつ間にこんなにもエディターだとか、コーディネーターだとか、ディレクターだとかが神聖視されるようになったのだろう。そしてその卵たちまでもが口々に地域を”編集”したいだの言い始めるように思えてならない。
「編集云々の前に、まずは一緒に体力仕事してくれる人がいい」
ド田舎に移住した宿屋・農家として、そんなことを思ってしまうときがある。「この宿をどんな場所にしていこうか?」「どの野菜を育てるとお客さんは喜んでくれるのだろう?」と考える時間は確かに面白いわけだが、それ以上に私の生活は日々の清掃と畑での中腰のような地味な体力仕事にまみれている。昔風に換言すれば、私の仕事はほぼブルーカラーな時間ばかりだ。
無論、私自身も素敵なものは沢山集まった方がいいと思うし、人間同士が繋がっていくことに喜びを感じる。ただ、あまりにも価値の”編集”ばかりに目が行って、価値そのものの創造が疎かにされてはいないだろうか。
思うに、ゼロから1を作るような価値の創造は案外泥臭い。何かを勘違いした者やその卵たちは「自分にはクリエイティブな発想とかセンスはないんで」とでも言いたくなるのだろうが、そんなもの私にだってない。
自信が無くても「なんとかなる」と自分に言い聞かせて、できるかもわからないのにできると言い張って、そしてもちろん何度も頭を下げて。そうした泥臭いどころか、泥そのものような時間の集積が価値を生み出していくのだと最近思えてならないのだ。
できあがった価値を並べたり、切り貼りしたりする行為は確かにキレイで、一種の洒落た仕事だろう。確かに、そうすることで1だったはずの価値は100にも200にもなるのかもしれない。
一方で、価値創造の過程を体感したことのない者が、本当にその価値をより大きくすることなどできるのだろうか?
仮に大きくなったとしても、その価値はもはや中身のない空き箱で、その中には虚空が広がってはいないだろうか?
ニュアンスは少し違えど、船頭多くして船山に上るなんて諺もある。
だからどうか、価値を編集する前に、一時的でも良いから価値を生み出す側の世界にも足を踏み入れてはくれまいか?
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