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新しいものを探す目

ボスニアの博物館で英語のキャプションを読めると気づいたとき、一所懸命に英語を勉強して本当によかったと思った。そのとき私は20歳だった。
昨年、27歳の私はウズベキスタンの博物館で「俺が一所懸命読むより、画像翻訳のほうが早くて正確じゃないか?」と思っていた。

そのとき、なんとなく海外旅行の価値が下がった。

私は割と海外旅行に出るほうだと思う。
ただ年々海外旅行で何を見たいだの、食べたいだのといった欲求がなくなりつつある気がしてならない
また20カ国ほどを訪問してみた結果、私が日本で生まれ育ったせいか、結局日本で食う飯が一番旨いと思ってしまっていることにも気がついた。やはり北海道で食うホタテは美味いし、高知のカツオは他に代えがたい。

そんな海外旅行に対して腑抜けになりつつある私ではあるが、なぜか毎年夏が過ぎる頃に「そろそろ海外行きてぇな」とそわそわする時期がやってくる。無論、特に行きたいところも、やりたいこともないのだが。そうしてなんとなくテレビで見たり、誰かにオススメされた場所へ行く。

ところで、実はというとこの文章はインド旅行へ発つ前日に書いている。すなわち、私は明日、日本の空港からインドへ向かう。
ちなみに何を血迷ったか27日間も滞在する予定だ。そして案の定、インドへの渡航は他人からの勧めによるものであり、特にやりたいことはない。だから現状、予定もほとんど立てていない。

「何しにインド行くんですか?」

先週、ある人に尋ねられた。困った。たしかに私は何しにインド行くんだろう。
私の中にも一応住んでいるナオト・インティライミみたいな妖精が「旅に目的なんかいらねぇ」と叫ぼうとしているが、私はやはりナオトでもインティライミでもないので結局「何しに行くんだろう」と頭を抱える。

新しい景色をみたい?
いや、もう大概のことはYouTubeで予習できてしまう。

新たな旅の経路を開拓したい?
いや、どんな辺鄙な国境超えでも誰かがブログを書いているではないか。

新たな人に出会いたい?
たしかにそう。いや、でも歳のせいか昔ほどゲストハウスでの偶然の語らいを求めなくなっている。

時代は進み、分からないものを分からないままにすることが難しくなった。たとえ見たことのない料理や祭りに出会っても、グーグルに頼ればすぐその詳細が分かってしまう。
偶然の出会いもSNSがあれば恒常化していく。それは嬉しくもあるものの、一方で矛盾を孕んだ皮肉にも思えてくる。

今や、新しささえ魅力に思えない。

そんなモヤモヤを抱えたままの2024年1月初旬、台湾を訪れる機会があった。日本と文化的背景が似ていたり、もはや現地のセブンイレブンで日本語のお菓子が売られている国で、先のような新しさを覚えることはあまりない。

ただこの国で唯一呆気にとられたことがある。それは食堂で若い女性が、麺をすする箸を止め、テレビから流れる大統領選の行方を熱心に追っていたことだ。
若者が選挙に熱心になるという光景が私には新鮮だった。それ以来、私は台湾の大統領選のニュースを追っている。そして、ほんの少しだけ日本の選挙にも興味を持った。

「日本を飛び出したくなるのは、新しいものに出会いたいのではなく、新しいものを探す目を開きたいからだ」
高橋久美子『旅を栖とす』

日本の政治家が何らかのキックバックを受け取っていたらしい。全く興味のなかったニュースが、やけに耳に残った。そのときふとこの一説を思い出した。

そうだ。分かりやすい新しさ、絶対的な新しさを欲しているわけではない
つまり、今までの考えに少しゆらぎがでたり、同じものが同じに思えなくなったり。そんな状況から見える何かを新しいと呼びたいのだ。

その何かは英語でキャプションが読めること、普段出会えない景色・食・人に遭遇することよりもずっと価値があるのではないか。
もっといえば、英語や景色の何もかもが、そんな新たな目を開くためのツールに過ぎないはずだ。

明くる日の今日、出国直前に空港で思いっきりまぶたを、そして目を見開いてみた。
だが、目に目など存在していないことを私はもう知っている。


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