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こんなやつもいるから大丈夫です、知らんけど

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日常の疑問や問題意識、抽象的な問いをあーでもない、こーでもないといいながら、簡潔で読みやすいエッセイにまとめます。 どうぞ、肩の力を抜いてお読みください。 きっと何か発見があり… もっと読む
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#哲学

分かり合えなくても、分かち合うことはできる ~「ねじれの位置」を目指して~

私とあなたは「分かり合う」ことができるだろうか。 私はこれまで、あなたと「分かり合いたい」「分かり合えるはずだ」と信じて生きてきた。きっとそれが、私にとっては、あなたという存在に関心を注ぎ続けるエネルギー源だったように思う。 しかし、25歳になろうかという頃、私はこの信念を覆すこととなる。 私は他人を理解できない私は他人を理解できない という事実を私は知らされる。発達障害。医学的な見地からの診断である。 その特徴の一つに、会話や言葉の文脈やニュアンス、また他人の顔色や

あの曲はいつも手をたたく

幸せなら手をたたこう。 そう言われて、叩ける人はどれほどいるのだろう。 また幸せの価値観は多様化しているというが、それに伴って幸せの絶対量も同時に増加しているのだろうか?どちらかというと、限りある絶対量を多様化した幸せで取り合っている気がしてならない。 では、幸せとは何か?と問われても答えはない。逆に言えば、答えが複数・人によると定義した時点で、幸せは多様化していくのだと思う。 手を叩け、とあの曲はいう。 ただ、どこかのポケットの中のビスケットが増えないように、幸せもま

目標の呪縛

支離滅裂だか、思ったままに最近頭の中を渦巻く諸々をそこはかとなく書きつくろうと思う。 さて、先日宿に来てくれた方に、 「noteに書いてる件がやっぱり目標ですか?」 と問われた。それは四年前に書いたこの記事である。 久しぶりに読んでみるとありがたいことに「割りと達成できてるんじゃないか」と感じる。一方で、さもすると 「じゃあ、これからなんのために働いたり、生きたりするんだろう」 とも思った。 なんとなくこの感覚は宿を始めて数年以来、少しずつ大きくなりつつあった。

バランスボールを置くこと 〜私は旅の「偶然」を破壊してしたのか?〜

宿を営んでいると、偶然の存在に唖然とする。 たとえば、お客様が実は庭師だったり、助産師だったり。辞書的にその職業の存在を知っているだけで、会ったことなど一度もない。俗的に考えれば、ナンパした異性が庭師や助産師である確率はおそらく極めて低いだろう。そう思うと、やはり偶然とやらはとても貴重なもので、一種のロマンすら覚えざるを得ない。 「旅の偶然をロマンで終わらせたら研究者はダメだよね」 大学院時代、とある先輩はそう私に言った。もう4年も前の話だが、なぜだか妙に心に残っている。

私は「左折」でできている

コンビニは進行方向左側にあった方がいい。 「このコンビニ、向こう車線にあるから入るのやめとこか」 父は幼い私を助手席に乗せながら、しばしばこのようなことを言っていた。車を運転するようになった今ならよくわかる。右折で対向車線側のコンビニに入るというのは、極めて面倒くさい。なるほど、だから幹線道路ではコンビニの向かいにコンビニがあるわけだ。 そういえば、私の隣で電車のシートの一番端に座っていたあの子も、車内の踊り場で左に曲がって、左側のドアから降車した。心奪われていた私は、

言葉くらいでしか自分を表現できないくせに

言葉くらいでしか自分を表現できないくせに、言葉に苦しめられている。 言葉以外で勝負する人たちここ数年、私の人生には画家だとかイラストレーターだとかいう人たちが数多く現れる。そして、彼らの多くはこう口にするのだ。 今思い出せば、居酒屋で偶然知り合ったダンサーも同じようなことを言っていた。ダンスこそが私を表現する方法なのだと。 言葉なんて必要としなかったアイツトルコ留学時代のルームメイトのチェコ人はとにかくだらしない奴だった。英語はほとんど話せず、トルコ語については学ぶ気配

宮沢賢治のおかげで、私は人生を苦しめる

「苦しまなければならないものは苦しんで生きて行きませう」 宮沢賢治との出会いかの有名な作家、宮沢賢治は彼自身が27歳の時、自分が10年後に死ぬなんてことを予想したのだろうか。と、27歳の私は思う。 宮沢との最初の出会いは小学校の国語の教科書に載っていた『注文の多い料理店』。ただ幼い私にとって、彼は教科書の中のおじさんでしかなかった。 最期に遺した手紙時は進んで大学1年生になった私は、久しぶりに宮沢と再会を果たす。それは彼の詩でもなく、童話や小説でもなく、彼の記した手紙で

A. |私| =私、|-私| =私 ~絶対値が持つ魔法のような優しい事実~

二本の縦線を使って、常に私は私になれる。 数学の用語を借りる私は昔から数学が好きだった。 たぶん、それがどこか哲学的だったからだと思う。かの数学界の巨人・ピタゴラスも哲学者であったというのだから、私みたいな数学素人がそんな気になるのも許してほしい。 数学とは高校生の時に別れを告げたとはいえ、今でも数学の用語たちはライフパートナーである。頭がモヤモヤすると、数学の用語をお借りする。 例えば、「言葉を微分・積分する」。要は微積分宜しく言葉の次元を上げたり下げたりするということ

ナナメの昼過ぎ

#読書の秋2021 #ナナメの夕暮れ 『ナナメの夕暮れ』の読了後、カラオケルームの会計を済ませることにした。 私と異なる一冊オードリー・若林正恭さんの『ナナメの夕暮れ』をようやく読んだ。 もちろんとても今日深い内容であったのだけれど、他方で、 と思ったのも事実である。これまで彼のエッセイはすべて手に取ってきたのだが、「そうそう、これが言いたかった」ということが極めて多く、実際私の本棚の最前列に陳列してもいる。ただ『ナナメの夕暮れ』は「ちょっと自分とは違うかも」といった

私は私との会話で忙しい

「忙」という字は、心が亡くなると書く。 ともすれば、私の心は亡くなっているのだろうか? 寂しいかと問われたら「一人で寂しくないの?」 と質問された。ゆっくり考えた。 でも、どれだけ考えても結局、心の底から寂しいとは思っていなかった。寂しくないと言えば嘘になるとは思う。かといって、寂しさが私を苦しめるなんてことは、今のところない。 寂しさって何だろう?この日から寂しさとは何か?なんて考えてみた。 おそらく質問された方の意図としては、一人でと発する以上、「誰か」との交流を

幹に実はならない

幹に実はならない、そしてまた、幹なくして実はならない。 実る唐辛子努力が実るなんて表現があるが、まさに今、唐辛子・香川本鷹は実りの時期を迎えている。夏の暑さや水枯れに耐えながら、なんとか今、収穫を行えているというわけだ。つまり、彼らの努力は文字通り、実を結んだ。 香川本鷹の発芽(4月) 栽培初期から唐辛子をみつめていると、彼らは幾度となく枝を分化させ、今の姿に至っている。1本の幹を2つの枝に分化させ、次第には4、8、16・・・と成長していくわけだ。そして、その分岐点に1

ぼくはたぶん、他人に興味がない

誰かとお話しするのが好き。 一緒にご飯を食べるのはもっと好き。 仮に直接会えない間柄であっても、その人の本を読んだり、ラジオを聴いたり。その人を知るということがとても好きだ。 つまり、他人がスキである。 ただ、ぼくは思う。 ぼくはたぶん他人に興味がない。 もちろん、究極的にって意味だけど。 他人の話を聞きたいのは、それを聞いた自分がどうなるのかを知りたいからだ。 そして、毎日書いている記事だって、全部自分のことだ。自分が見聞きしたことはもとより、経験したすなわち食べた

裸と恥じらい、そして本棚

私の「ありのまま」はきっと本棚にある。 本棚をみせるということ「自分の本棚を他人にみせるのは、裸をみせるようなものだ」 高校1年生の頃だったか、どこかでそんな一節と出会った。 とはいっても、当時の私は棚に並べられるほどの書籍を持っていたわけでもなかったし、私の裸を見たことがあるのは親・親戚と男湯で出会う赤の他人くらいである。 そのため、自分もまた一つの裸体であるなんていう感覚は持ち合わせるはずもない。そして、距離の詰まった他人、私の場合は異性に「裸をみせる」なんていうの

中濃ソースの凄さはド・モルガンの法則では説明できない

「とんかつソース∩ウスターソース」ということか? 中濃ソースとは何か?生きるとは何か? 愛とは何か? 中濃ソースとは何か? 私の人生における最大の謎である。 いや、ほんま、中濃ソースって何? 大阪生まれ大阪育ちの私にとっては、ソースといえばウスターソースやとんかつソースはもちろん、時と場合によっては焼きそば・お好み・たこ焼きソースなんてものが冷蔵庫に入っていた。なんなら、ピリ辛のどろソースも良い。 ソースネイティブな私の青春いわばソースの国で生まれた、ソースネイティブ