宮沢賢治のおかげで、私は人生を苦しめる
「苦しまなければならないものは苦しんで生きて行きませう」
宮沢賢治との出会い
かの有名な作家、宮沢賢治は彼自身が27歳の時、自分が10年後に死ぬなんてことを予想したのだろうか。と、27歳の私は思う。
宮沢との最初の出会いは小学校の国語の教科書に載っていた『注文の多い料理店』。ただ幼い私にとって、彼は教科書の中のおじさんでしかなかった。
最期に遺した手紙
時は進んで大学1年生になった私は、久しぶりに宮沢と再会を果たす。それは彼の詩でもなく、童話や小説でもなく、彼の記した手紙であった。死没する10日前、弟子の柳原昌悦に宛てた書簡。彼の自己否認的でありながら、一方で死を迎え入れる力強さに、18歳の私はもはや畏怖の念すら感じたものだ。
私は彼が慢心しているなど一つも思っていなかった。それは彼が『雨ニモ負ケズ』で表した通りである。でも、彼は死の10日前に自身の人生を振り返ると、才能・器量・身分・財産に溺れる自己がそこにいて、そいつはどこかいつも他人任せだったという。
手紙は続く。地位や名声を手にした彼が、最後に欲したのは「風の中を自由にあるくこと」「はっきりと(誰かと)何時間も話をすること」「兄弟のために少しお金を用意する」なんていう小さなことだった。
きっと今、私が何気なく過ごしている日常も、晩年の宮沢にとっては神の業に見えるのだろう。
宮沢賢治に対する嫉妬
私はさきほど「畏怖」なんていう見栄えの良い言葉を使ったが、実際のところは「嫉妬」以外の何物でもなかった。つまり、18歳の私には約20年後、自分がこの手紙のような文章を書ける気がしなかったのだ。ただ18歳だった私は、「まぁ、まだ20年もある」なんて高をくくっていた。
しかし事実として、あれよあれよと10年弱が経とうとしている。宮沢的な人生に私も沿おうとすれば、あと半年で『注文の多い料理店』ばりの名作を残さなければならないらしい。
無論私は来年『注文の多い料理店』は書けないだろうし、10年後もきっと同じようなことを言っているのだと思う。つまり、嫉妬はいつまでも続くのだ。
苦しまなければならないものは苦しんで生きていませう
それでも、嫉妬そして苦しみの対象である宮沢の文章を何度も読み返すのには理由がある。それは手紙には残された、この一節のせいだ。
「なぜ私が苦しまなければならないのだ?」という自己問答を、彼は何度繰り返したのだろう。それでも宮沢は「苦しまなければならないものは苦しんで生きて行きませう」と言う。
この一節に出会うまで、私にとって楽しみの価値は苦しみのそれよりも比較優位であった。それでも、この一文を見れば、それぞれの価値は同等であるのかもしれないと思えてくる。
また私にとって嫉妬は、間違いなく苦しみの一つだ。ただ彼も病床で「風の中を自由にあるく」といった日常を謳歌する者に嫉妬していたのかもしれない。
だとすれば、私が宮沢に近づくチャンスは楽しみを楽しむこと以上に、苦しみを純に苦しむことに眠っているのではなかろうか。でなければ、彼も弟子に「苦しまなければならないものは苦しんで生きて行きませう」なんて言葉を残したりはしないであろう。
宮沢賢治。
彼は私の苦しみの根源であり、そして苦しむことの大切を教えてくれた存在でもある。
すなわち、人生を苦しめるのは宮沢賢治のおかげなのだ。
(終)
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