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私は私との会話で忙しい

「忙」という字は、心が亡くなると書く。
ともすれば、私の心は亡くなっているのだろうか?

寂しいかと問われたら

「一人で寂しくないの?」

と質問された。ゆっくり考えた。

でも、どれだけ考えても結局、心の底から寂しいとは思っていなかった。寂しくないと言えば嘘になるとは思う。かといって、寂しさが私を苦しめるなんてことは、今のところない。

寂しさって何だろう?

この日から寂しさとは何か?なんて考えてみた。
おそらく質問された方の意図としては、一人でと発する以上、「誰か」との交流を指すのだろう。

誰かとの交流。ご近所づきあいは島では盛んである。無論、高齢者だらけの島なので、年々交流は減るのだろうが現状としては問題ない。

「一人」をもう少し読み込んでみる。すなわち、誰かと暮らしていない。ただこればかりは、私が暮らす香川の離島も、東京のアパートも大差ない。一人で住むのなら、どこで暮らそうとそれは一人暮らしだ。

強いて言えば、都会と島との大きな違いは、私の暮らす島は人口も人口密度も恐ろしく小さいことだろう。
家から一歩出ても大抵人は歩いていないし、人間の生活音すら聞こえない日もある。夜になれば海から波音が聞こえるくらいなのだから、その静けさは他の追随を許さない。もしかすると、このような状況を「寂しい」と表するのだろうか。

私は私との会話で忙しい

「寂しいって何なんやろね」
「人との交流がないことちゃう?」
「まぁ近所のおっちゃん・おばちゃんとはよく話すわな」
「そしたら、寂しいって一人で住んでることなんかもね?」
「一人暮らしなんか、東京もド田舎の島でも事実としては同じやろ」
「そりゃそやけどさ」
「ただ波音聞こえるくらい静かっていうのは、確かに寂しいっちゃ寂しいか」

私は気づいた。私は私との会話で忙しい。
だから、寂しくないのだろうと。

私は昔から「おしゃべり」である。ただ今思えば、誰かと話すとき以上に、私自身と話すときの方がよりおしゃべりのように思う。
誰かと話すときは、相手の機嫌や話の流れを分からないなりにくみ取ろうとする分、私の発話量は減る。しかし、相手が自分ならお構いなしだ。

私には私という話し相手がいる。だからきっと私は昔から一人で焼肉屋にも入れるし、一人で何か始めることにあまり躊躇いがないのかもしれない。

私と私の間にいる「誰か」

さて、このような独りよがりで忙しい私ではあるが、島で宿を開いてみた。
「忙」という字は、心が亡くなると書く。ともすれば、私の心は亡くなっているのだろうか?

「次、いつお客さんが来てくれるんやろうね」
「来てくれたら、何出すよ?」
「丁度、春につけた梅酒やらは飲み頃か」
「せやけど、お酒のみはるか分からんで」
「そしたら、すだち貰ったから、お湯に溶かそか」
「すだち出すんやったら、来週くらいに来てくれたらって感じやな」
「来週は晴れそし、夕日も綺麗かもしれんね」

心が亡くなるのではないか、なんていう寂しい心配はどうやら無用らしい。

なぜなら、いま、私と私の会話には、大抵いつも「誰か」いるからだ。

ーーー

人間は一日に数え切れきれないほど、自分自身と会話しているなんてことを数年前に耳しました。最初に聞いた時は、「人間って寂しい生き物だな」なんて思っていましたが、今振り返ると私自身はその時間を結構楽しんでいるなぁと思いまして。

宿にいらした際は、ぜひ旅の道中どんなことを自分自身と話したのか聞かせてくださいませ。

あなたとあなた自身の会話に少しだけお邪魔させてもらえたら、私としては嬉しい限りです。

★先週、こたつを導入しました。まずはこたつでぬくぬくしましょう↓

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火の前は自分との会話がやはり多くなります(五右衛門風呂の内部)

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