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スポットライト 世紀のスクープ ~揺れ動く人々の心理、社会問題を題材に~

教会による児童虐待問題が暴かれるにつれ、揺れ動く記者やボストンの人々の心理描写が見事だった。
ある人物は、教会の闇を知るにつれて教会に対する信仰を失った。日本人にとっては分かりづらいかもしれないが、信仰を失うということはアメリカ人にとって大きなアイデンティティ・クライシスであろう。

またある登場人物は、過去に教会を告発することができたにも関わらず、小さな記事で済ませてしまい、それを悔やんでいた。我々の日常生活においても、毎日、多量の報道がテレビやネット中を飛び交い、数日は人々の耳目を集めるも、一週間も経てば誰もそれを思い出そうともしないというルーティンのもと生活している。車窓から見る知らない街の風景を漫然と楽しむような感覚で、我々は報道された社会問題に対し、あーでもないこーでもないと口角泡を飛ばし、時にはニュース記事のコメント欄のはしっこで言い争ったりもする。しかし、それらのおこないは社会のより良い展望のためではなく、もっぱら己の正義を振りかざし権力を誇示するための示威行為に過ぎないのではないだろうか。この映画を観て思うことは、もう少しでいいから想像をしてみる必要があるということだ。我々は、記事を重く取り扱わず、被害者に対し見て見ぬふりをし、あまつさえ、さらなる被害者の発生を放置していた劇中の記者と同じ態度で生きている。実際、劇中では、報道が出る数週間の間にも新たな被害者が出ている描写がある。しかし、それでは、また同じような事件が繰り返され、上述したような毎度の光景がネットという電脳空間の片隅で展開されるに過ぎないだろう。もっと立ち止まってニュースを眺めるべきであると思う。正しさばかりに取り憑かれた”論破”の風潮が蔓延する昨今では特に必要な態度ではないだろうか。

小さな記事である、あるいは、報道されないということが、すなわち、事件の重大性が低いまたは存在しないということではないということも肝に銘じる必要があるだろう。
ジャニー喜多川氏による、少年への虐待がBBCによって大々的に報じられても、一部ネットメディアを除き、日本国内ではほぼ無風の様相を呈している。長年、ジャニーズを応援していたファンなどは、ジャニー喜多川氏への奉仕によって表舞台で活躍できるのだからいいのではないかと、完全に認知が歪みきっているとしか思えないような論理で無理矢理に納得させているようだ。
教会の不都合な真実が暴露されたあと、熱心な信仰者である女性記者の祖母が、動揺するシーンがあるが、ジャニー喜多川氏の報道に対し、上述したような論理破綻した態度で望むものは、応援しているジャニーズタレントたちは純潔であるという認識と報道が呈する現実のあいだに存在する認知的不協和を克服できないでいる。しかし、それでは、また新たな被害者が生み出されるだけなのだが。

少し話がそれたが、最後にもう一つ印象的だったことを書いて終わりたい。
それは、ボストンの街の人々がなんとなくでも教会の不祥事を知っておきながら、街でハブられないために見て見ぬふりをしていたことである。報道の指揮を執ったのは独身のユダヤ人というマイノリティであるし、被害者救済にあたった弁護士はアルメニア系であるし、記者の一人はポルトガル系であった。周囲を気にして生きるという無難な態度は日本人に特有のものと思っていたが、程度の差こそあれ、意外にも人類に普遍的な現象なのだなと思った。そして、そのような異論を許さぬこわばった空気を打破するのは、地域や世間のしがらみや暗黙のルールに縛られない”部外者”であるということも一つの発見であったことも付け加えておきたい。奇しくも、ジャニー喜多川氏の報道が、”部外者”である英国BBCによりなされたことは、このことを強く裏付けている。

以上、気になった点や学びになった点について綴ってみた。なお、これは物語の網羅的な考察、解説の類ではないので、各々で詳しい解説記事を見るなり、本編を繰り返し観てみるなりしてもらいたい。

ご一読くださりありがとうございました。

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