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Episode 421 子どものころから変わりません。

ASDの人で「反抗期が無かった」という人が一定数いると思います。
そういう私もそのひとりでして、「なぜ反抗期が無かったのか」という点については以前このブログで記事にしたことがあるのです。
私の場合で言えば、プロの洋裁師であった母親の「切れ味抜群のプロの洋裁道具」をイタズラして痛い目にあったのが始まりだったという話をしたのです。

子どもにとって親とは、尊敬に値する人間かどうかとは別問題にして「絶対的な力と知識を持つ存在」なのです。
それは私のようにASDの子であろうと定型の子であろうと変わりはないのでしょう。
ではどうしてASDの子に「反抗期が無かった」という子が多いのか…と考えると、やはり認知特性の歪さが原因ではないか…という考えが浮かぶのです。

前回のブログ記事で、私の認知特性は三次元映像型で、脳内の記憶ライブラリは感情を含まない白素材の映像である…とお話ししました
前回の話では、今あるパートナーと私の関係性について、パートナーの感情を含んだ言葉を白素材の映像データに変換してしまうという指摘をしたのです。
これが今現時点ではそうだけど、過去においてはそうではなかった…ワケないですよね。
現在は過去からの経験を積み重ねた結果なのですから。

簡単な話です。
私は母親の洋裁道具をイタズラして痛い思いをしました。
そして母親と「仕事の道具は触らない」という約束をするのです。
それは、約束という「指示の言葉」である一方、ザックリと切れる傷口の映像とのリンクでもあるワケです。
約束という指示の言葉は、私の脳内ライブラリに痛みの映像とセットで収納された…ということ。

年齢が上がるにつれ、家族や友人との「トライ&エラー」の経験を積んで感情をミックスした自我を表現する手段を獲得していく定型発達型が標準である一方、私のようなタイプのASDは、言葉を自分の理解できる映像に変換する過程で理解不能な感情部分を抜き取るワケです。
当然、理解できて映像変換される部分は、具体的な事象だけになる…。

パートナーが「感情を飲み込まれてしまった」と感じることと、両親が「反抗期が無くて聞き分けの良い子だった」というのは、全く違うことを言っている様に聞こえて、実はイコールなのではないか…そう思うのです。

これは私の経験に基づく仮説です。
でも…そう考えると、ものすごくスッキリと認知特性と感情の問題を説明できるのです。

旧ブログ アーカイブ 2020/4/5

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