名前は大切な宝物
とても些細なことだが、学生時代から無意識のうちに習慣化したことで、私が未だに大切にしていることがある。
友人、または、少しずつ親しくなっていく過程で、大切にしたいと思う相手、特に同性女性の場合、相手を苗字やあだ名ではなく、名前で呼ぶことだ。
☆
なぜ、名前で呼ぶようになったか。
それには大きな理由がある。
人見知りで、引っ込み思案、友達と外で遊ぶよりも教室や廊下に残って、一人で本を読むような、そんな私は、小学校では馴染めず、いつしかいじめられていた。
誰もが私のことを「◯◯」「◯◯さん」と苗字で呼んでいたのだ。
皆は下の名前で呼びあっている中で、私はひとりだけ浮いた存在だった。
☆
小学校何年生の時だったか...記憶が定かではないのだが、名前の由来を両親から聞いてくる宿題があった。
両親は、私の質問に丁寧に答えてくれた。
実はもう1つ、父の名前と母の名前から一文字ずつ取った名前の候補があったこと。
でも、両親二人で色々と考えて、生まれてくる、私が男の子でも女の子でも違和感ない名前にしたいと思っていたこと、色々と思い出話を話した上で、
最終的に決めた名前に込められた意味を、しっかりと教えてくれた。
その上で、父も母も「生まれてきてくれてありがとう」と、何度も何度も、私を抱き締めた。
※とても貴重な思い出なのだが、この話にはオチがある。
後々、母の妹、つまりおばから聞いたのだが
私の名前は、母が当時から大好きだった某男性アイドルさんの本名と全く同じ名前、表記なのであった。
さすが我が母、である。そしてそんな母の希望を叶えた父の優しさも今改めてよく分かるのだ。※
☆
宿題の成果を披露する発表会のような授業。
一人一人、自分の名前の由来を発表した。
おおー!とか、すごーい!とか、生徒たちの歓声や拍手が起こる中で
私の発表は、誰もが知らん顔をした。
悔しかった。
私のことをいじめるのは構わない。
両親が私のために一生懸命つけてくれた名前のことを無視されたことが、こども心にショックで、居たたまれなかった。
その時に小さな心の中で決意したことがあった。
誰がなんと言おうとも、私は、両親がつけてくれた名前を大切にする。
泣かないよう、必死に握りしめた拳の感触を私は今でも忘れたことはない。
☆
私は、自ら希望して、私立中学受験を決めた。
受験準備スタート自体も遅く、入塾のタイミングも遅かったため、選抜テストは受けられず、一番下のクラスに入った。
驚いたことは、塾では何の苦労もなく、自然に友達ができて、仲間の輪ができていたことだった。
そして、何よりも嬉しかったことがあった。
皆、私のことを下の名前で呼んでくれたことだ。
翌年、小学校六年生、いよいよ受験を控えた年に私は選抜クラスに入ることができた。
入塾当初からの仲間たちは、いつも成績が張り出される度、私のことをすごいと褒めてくれ、選抜クラス入りしたことも自分のことのように喜んでくれた。
受験も無事合格し、私は希望していた都内私立女子校の中高一貫校に入学した。
中学一年のクラスではなんと漢字は違えど、私と同じ名前が私を含めて三人いた。
なので、三人で相談して、以降私は名前をもじった呼び方で呼ばれた。
ちなみに、この 名前をもじった呼び方は、成人して、結婚してからも親しい友人からはそう呼ばれている。
名前と全く関係ない呼び名、あだ名ではないので、私自身も気に入っている。
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結婚してからできた、同じ既婚女性の友人たち。
年齢関係なく、私は下の名前で呼ぶようにしている。
もちろん、立場や、状況、親しい度合いにも依るけれど。
ある程度親しい友人たち、親しくなりたい人たちには名前で呼んで、彼女たちの名前を大切にしているとも言える。
なぜなら、特に女性の場合、結婚してからも仕事では旧姓を使っていたり、結婚してからの姓が変わって、皆がその姓を好んでいるとは限らないからだ。
私自身は、現姓、つまり夫の苗字は違和感なく過ごしているし、むしろ結婚してからの姓をもじった呼び方も好ましく思っている。
けれど、夫婦別姓を望む女性が少なくないことを踏まえると、やはり親しい間柄で 苗字で呼ぶことはどうしても避けたいと思ってしまう。
ただでさえ、お子さんをお持ちの女性なら
「◯◯ちゃん/◯◯くんのママ」などと、
自分の名前を呼ばれることはほとんどないだろう。
そして、家族で過ごしているときでも、旦那様から
「ママ」と呼ばれていたりもするだろう。
☆
英国に短期留学していた時、そして駐在員の妻として夫の赴任先で暮らしていた時、私は、日本人コミュニティの中で流されたり自分を見失うことなく、辛いことがあっても楽しく過ごせることができた。
はっきり言える理由が1つある。
英国時代も、駐在員妻時代も、現地で親しくなった様々な国の人たちから、◯◯と、下の名前で呼ばれていたことだ。
おはよう、◯◯!
またね、◯◯!
◯◯、元気?
そうした日常の挨拶に名前をつけて呼ばれることで
なんだか元気になれた。
そうだ、私は私としてここでしっかり生きているんだ、と実感できたから。
☆
名前は大切な宝物だと私は思っている。
もちろん、自身の名前を好きになれない、そんな人が存在していることも理解している。
けれど、誰しもこの世に生を受けたとき、必ず両親や祖父母、曽祖父母などが色々と考えて決めてくれたことは確かな事実だと思う。
インターネットが普及して間もない頃から私は自身でホームページを持っていたこともある。
その時につけていたハンドルネームも、自身で色々考えて決めた、愛着のあるものだった。
そして、SNSを始めた時にも、私はアカウント名を決めた。
ここnoteでも。
インターネット空間においても、本名で生活している人はいる。
私は単純に、リアル世界とSNS、noteの空間での自身にそれぞれ名前を変えることで、それぞれの場所で出会った人を大切にしながら過ごしている。
SNSでのつながりから、実際に信頼できる友人もできた。
そんな友には名前で呼んでいるし、相手も私を名前で呼ぶ。
そうした切り替えも、実際、とても楽しい。
SNSでも、ここnoteでも、私は必ずコメントや返信に相手のアカウント名を入れて、挨拶したり、コメントしている。
なぜなら、そのアカウント名にはその人それぞれの思いが込められていると思うから。
名前、アカウント名。
リアルでも、ネットでも私は相手に呼び掛けることをこれからも大切にしたい。
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