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「なんでも誹謗中傷」とする圧力

行年27才の若さで自死したタレントの記事が
ネットをうねる

現時点、何がタレントを死に追い詰めたのかは
推測のまま
「批判と誹謗中傷は違う」の文字が駆け抜けた

タレントの自死には3つの憶測が流れている
・ LGBTへの誹謗中傷に悩む
・ 子育てを放棄した批判に悩む
・ 性転換に必要な女性ホルモンでの、鬱

ところで、批判と誹謗中傷の違いは何なのか
一概に「誹謗中傷」とまとめるのは安直で
批判を誹謗中傷に括ると
対案不要な共産国や社会主義国になってしまう

苦言まで誹謗中傷にしてしまうと
自由を抑止する、他者の自由は保障されなくなる

自身の性認識が女性だから離婚する、家庭放棄を
「おかしい」と声に出すのが誹謗中傷なら
一体、どれを批判というのだろう

「LGBTへの不寛容」ネットの声を見た
男性、女性、中間の性と大雑把に区分したとき
これは全て、人と見做し同一の権利を持つ
中間の性にある、性的マイノリティを贔屓する
それこそが差別していると思わないのかな

例外を作ることは、一方の自由を認めることで
もう一方が不自由を強いられる懸念ではないか

不平等や不寛容、資質の格差を生むだけではなく
マイノリティへ寛容になりつつある社会での 
共存共栄を破綻させる危機に思える
つまりは、けじめはつけなさいという意味

法律だけではなく
世論が秩序を維持させている部分があり
社会的責任に軸を置けば
批判と誹謗中傷の区別はつくと、わたしは考える

ネットを見ると、LGBTへの誹謗中傷よりも
自死したタレントの自由な言動が、個人へ帰結し
社会が嫌悪した見解を示したのではないか

世間は、未だに“普通やみんな一緒”を
自分や他者へ求め
“普通やみんな一緒”に
耐えられなくなる他者の気持ちも判る

「死ね」「ブス」などあげつらう言葉は
批判でない、誹謗中傷として断罪しても
感情で突き動く「なんでも誹謗中傷」と
する圧力へは、納得しかねるものがある