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映画『西の魔女が死んだ』を観て

子どものころの感覚を、まざまざと思い出させる瞬間が多くあった。
手紙を届けにやってきた郵便屋さんが、おばあちゃんの家でお酒を飲んでいたシーンは、どきりとした。
小学生くらいのころ、大人たちの会話についていけなかったときや、授業参観で、大人たちが笑うツボがよくわからなかったときの、疎外感を思い出したのだ。

大人になると、子供のことが気楽でうらやましくなる人もいるそうだ。
けれども、ちゃんと子ども時代を振りかえると、決して気楽ではなかっただろう。

子どもは、数多くある道から、何かを選ぶという、途方もない選択の入り口に立たされているのだから。

魂の成長

まいのように、ときに子どもは哲学的な質問をする。
「人は死んだらどうなるの?」
「魂がわたしなの?」

そして、大人びた言葉を使って、堂々と反論してくる。もちろん、まいがおばあちゃんにぶつかっていけるのは、信頼関係があるからだ。
「真相がわかったときに初めて、この疑惑や憎悪がなくなると思う」
「おばあちゃんだって、わたしの言った言葉に動揺して、反応したよね」

「親と子」「祖母と孫」の関係性の変化を目の当たりにし、人が成長するために必要なことを考えさせられる。子どもと向き合うとき、大人はたじろぐことがあるかもしれないが、経験から学んだ信念や、大切にしていることを伝えるべきなのだろう。

おばあちゃんもそうしていた。
「死ぬということは、魂がからだから離れて、自由になることだと、おばあちゃんは思っています」
「魂はからだをもっているから、色々なことが体験できるんです。・・・魂は成長したがっているのです。・・・からだがあると、楽しいこともいっぱいありますよ」
「魔女は、自分の直感を大事にしなければなりません。でも、その直感に取りつかれてはだめなのです」と。

いじめについて

まいが不登校になる原因のひとつ、孤立について考える。
孤立や無視などを含めたいじめは、たまたまその子が対象になってしまうことで、生まれるものだと思われる。
絶対にその子でなければならない必然性はないはずだ。

友達に合わせることに疑問を感じて、それをしなかったまいが、孤立したように、自分の意志を行動で示しただけで、グループから外される。それだけの理由なのだ。

ひとりが怖いから、自分の立場を守り、安心するために、誰かをハブる。その子がハブられている間、自分は安泰だから。

学校という閉ざされた世界で、自分の意志を体現しながら、周囲と良好な関係を築くことはとても難しい。
そんな中で、自分に自信を持ったり、自己肯定感を高めることは、なおさら難しいだろう。

私は、常に周りと比較される学校生活で、評価が高いことが価値のあることだと、感じざるを得なかったから。

生まれてきただけで特別だ

私は大学に入ってもしばらく、自己肯定感を持つことができなかった。自分の価値とは何だろうか、と自問自答していた。

そこで、大切な人と真剣に向き合い、自分の育った環境や、親子の歪みなどをひとつひとつ整理した。そして、世間で常識と言われることの裏に隠された思惑や呪いのようなものなどについて、お互いの考えをぶつけ合った。

そうしていくうちに、自分とはどんな人であるかをよく理解し、どんなことが苦手でできないか、何が好きで続けていけるか、ということが見えてきた。時間はかかるが、自分自身を生きていくために必要な過程だった。

私はその経験から感じたことを、これを読んでくださる方に、一番伝えたい。

生まれてきただけで、みんな特別だ。
学校に行けないと思ったら、行かなくて良いのだ。
例えば、まいのおばあちゃんが言ったように、ずっとおばあちゃんの家にいても良いのだ。
規則正しい生活をし、迷いながら、その都度自分で決断し生きていく、ということが立派なことなのだ。

必ず死を迎える、という残酷な運命のなか、毎日寝て、起きて、生活を営み、生きている私たちは、十分素晴らしい。

死ぬのは一瞬で、簡単だ。
生きる方が、大変だ。
生きているだけで、十分だ。

生きることを選ぶ私たちみんなが幸せであるように、まずは自分自身を労ろう。
そして身近な人へ、大切に想う気持ちを伝えよう。

優しさは連鎖していくものだから。

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