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還元

 二日目以降も来るようでしたら、どこか店に移動して、お話ししましょう。

 吹く風が心地よい、古本まつりの会場。数年ぶりに偶然顔を合わせた、古本好きの大先輩から、こう声をかけられた。
 すでに彼の傍には、古本が一杯詰まった袋が二つある。相変わらず、旺盛だ。今回の収穫も含めて、訊いてみたいことは沢山ある。
 ぜひ、お願いします。そう返事をすると、「では、よろしく」とチャーミングな笑みが返ってきた。

 珈琲を挟んだ会話は、大先輩がこれまでに読んできた本の話が中心になった。年齢ごとにどんな本に感化され、影響を受けてきたか。
 机上には、実際に読んできた本の実物が並ぶ。使い込まれてくたくたになっている本もあれば、買い直されたものもあった。

 年寄りが若い人に話すと、説教臭くなって申し訳ないが、と前置きした後、紹介してくれた本がある。

「前にも言っただろう、わたしは多数の者として生まれ、たったひとりの者として死んだのだ。生まれたての子供は無数の群衆なのだが、人生はたちまちのうちに、その群衆をたったひとりの個人へ、自己を表示し、ついで死んでゆく一個人へと還元してゆく。わたしとともに数多くのソクラテスが生まれ、そこからすこしずつ、いつか司法官の前に立たされ毒人参を飲まされることになるソクラテスが切り離されていったのだ。」
ポール・ヴァレリー著、清水徹訳『エウパリノス・魂と舞踏・樹についての対話』岩波書店、P70)

 引用したのは、ポール・ヴァレリー「エウパリノス」の中の一節。本作は、プラトンの対話篇からヒントを得た作品で、ソクラテスとその愛弟子・パイドロスの冥界での対話が描かれる。
 歳を重ねるごとに、この言葉の重みが増していくーー該当のページを開いて示しながら、大先輩はそう口にする。自身に「そうだよな?」と問うて、「そうだ」と頷くように。
 何歳のときに読んだんですか、と訊ねたところ、30になるかならないかだったと思う、との答えが。

「当時のぼくは、もう30か……あとは老いるだけ、と落胆していたと思うけれど、この歳になって振り返れば、まだまだ若いよね。落胆する要素なんて、本当はなかった」

 「無数の群衆」であった赤ん坊は、その発育過程で、無限に存在するかに見える進路を取捨選択していき、やがて一つの道を「ベスト」であると見定めて、突き進んでいく。その過程では、本来切り捨てるべきでなかった道が、誤って取捨されるという事態も当然起こるが、それはなかったものとして処理される。いちいち気にしていたら、後悔で前に進むことができなくなってしまうからだ。

「最近の悩みは、若い人を見かけると、見切りをつけるのはまだはやい! と声をかけてしまうところだね」

 この言葉を聞いて、パッと頭に浮かんだのは、古本まつりの会場で本と睨めっこをする私の姿だった。これは……ひとこと言っておかなければならない。

「安心してください。自分はまだ見切りをつけていないので」



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