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投票

 先日、2月4日、京都市長選挙の投開票が行われた。
 私は後輩さん2人を連れて、投票所に足を運ぶ。
 ここで強調したいのは、この投票があくまで”ついで”だということ。外出の主目的は、投票のあとに待っている外食である。
 行った方がいいとは思うけど、モチベーションが……と唸っていた後輩さんを投票所に誘うには、飯が一番だ。「飯食うついでに、どう?」と誘ったら、快く応じてくれた。ありがたい。

 後輩さんがどの候補に投票したか。私はそのことにさして関心はない。それよりも、周囲の人間と政治関連の話をすることがあるか。その点を、食事中訊ねた。
 思うところが色々あったようで、後輩さん2人の嘆きが止まらない。
 2人に共通していたのは、政治の話になると、もっとも軋轢を感じるのが父親であるという点。年齢や立場が異なれば、政治に求めるものが違ってくるのは当然であるが、かつて一つ屋根の下でともに生活していた人間と、ここまで考えが違うとは。「政治の話は避けてますよ、ぶつかるんで」と後輩さんは語る。

 父親と政治信条でぶつかる、というエピソードは、これまでにも幾度か見聞きしてきた、ある意味よくある光景だ。本の中にも、しばしば見かける。
 例えば、作家で市民活動家の松下竜一の著書『豆腐屋の四季』に、次のようなエピソードがある。

「私と父は、その朝たがいに意中の候補をいい合った。安保廃棄、非武装中立を支持する私は社会党候補の名をあげた。しかし父は、非武装中立など夢だといって、地方区に自民党候補をあげた。私は父を説得できなかった。自分自身では揺るぎなく信じている非武装中立も、他人に理論的に説明できないのだ。」
松下竜一『豆腐屋の四季 ある青春の記録』講談社文芸文庫、P191)

 「理想」と「現実」の対立……あぁ、なんと見覚えのある光景だろう。
 ある主張を「理想論」と見做し、「〇〇など夢だ」という風に現実的でないことを強調するスタイルは、とにかく議論で優位に立てる。そこでは、本当に現実的でないのかは問題にされない。
現実的でないと指摘した側は理知的だと思われる一方、指摘された側は「頭の中がお花畑」と揶揄される始末。
 もし「理想論者」が、自身の主張は決して空理空論ではないことを論理立てて説明しようとしたとき、それを真摯に受け止める姿勢が、「現実論者」の側にあるのかというと甚だ疑問である。

「いくら説明しても、"はいはい"とあしらわれて……もう勘弁って感じですよね」

 後輩さんの話の中にも、似たようなエピソードがあった。こういう場面が、いくつもの父・子の間で起こっていることを考えると、いたたまれない気持ちになる。



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